「ゲニウス(北)の北海鉄旅いいじゃないか」

……北海道の旅行・鉄道の魅力をアグレッシブに発信する"闘う情報サイト"です。

  1. トップページ >
  2. 北の特急(+α)図鑑 >
  3. 札幌~函館 歴史

札幌~函館間 歴史 第2章 連絡船との接続 / 北の特急(+α)図鑑

青函連絡船の登場、本州との連絡

函館~小樽間の鉄道ができるまでは、東京~青森間を鉄道、青森~室蘭間を船舶(函館経由)で移動し、室蘭から再び鉄路で道内の都市に向かうのが主要ルートでした。

明治38年に全通した北海道鉄道(函館~小樽間)が明治40年に国有化され、その翌年に青函連絡船が就航したことで、函館~札幌間の鉄道路線は本州~北海道間のメインルートとしての役割を担うようになりました。

東京~青森間を鉄道で、青森~函館間を船で移動し、函館からまた鉄道で道内各地に至るというこのルートは、のちに青函トンネルが開業する昭和63年まで、本州~北海道間の陸運の要として活躍することとなりました。

明治44年7月1日のダイヤ改正で、北海道初の急行列車(3・4列車。大正4年から1・2列車)が登場。この列車は函館~札幌~旭川~釧路間で運行され、旭川~釧路間は普通列車でした。

青函連絡船を介して上野~青森間の急行列車と接続し、ここに上野~札幌間の急行リレーが誕生しました。

その後大正13年には函館~札幌間の急行列車が2往復に増えましたが、昭和3年の長輪線(現在の室蘭本線の一部)全通後は函館~札幌間を直通する急行は1往復に減りました。この区間の急行が2往復に復帰するのは、昭和9年の戦前最大のダイヤ改正まで待たなければなりませんでした。

明治44年7月
道内初となる急行3・4列車(函館~旭川~釧路。旭川以東は普通列車)設定
大正2年12月
3列車が1列車に列番変更
大正4年6月
4列車が2列車に列番変更
大正4年12月
函館~函館桟橋間開業、急行1・2列車など函館本線全列車が函館桟橋発着に
大正10年8月
根室本線全通(下富良野線開通)に伴い、1・2列車が同線経由となったため旭川を経由しなくなり、急行区間が函館~滝川間に短縮
大正12年5月
1・2列車が函館桟橋~稚内間の運転に変更(急行区間は函館~滝川のまま)
大正13年6月
急行3・4列車(函館桟橋~根室。滝川以東は普通列車)設定
1・2列車の急行区間が函館桟橋~名寄間に延長
大正15年8月
天塩線(現在の宗谷本線音威子府~幌延~南稚内間)開業に伴い1・2列車が同線経由に変更、夏季の急行区間が函館桟橋~稚内間に延長
昭和3年9月
室蘭本線全通(長輪線全通)に伴いダイヤ改正。急行列車は旧1・2列車と同時刻帯の401・402列車(函館桟橋~根室。滝川以東は普通列車)と、室蘭本線・天塩線経由の203・204列車(函館桟橋~稚内港)の2往復に。後者は札幌を経由せず、函館~札幌間急行は1往復に減少
203・204列車に続行(または函館~長万部間併結?)する503・504列車(函館桟橋~野付牛。野付牛は現在の北見)の長万部~札幌間を通過運転し函館~札幌間速達列車は2往復を維持
昭和9年12月
戦前最大の全国ダイヤ改正。急行列車は1・2列車(函館~札幌~旭川)と3・4列車(函館~札幌)の2往復に
(樺太航路の運航に合わせて、どちらかに稚内港行き列車を併結)

列車の速達化のほかに、線路や駅などハード面も改良が行われていきました。特に函館~小樽間は、建設当時の不況を反映した出来栄えだったうえ、日露戦争のために急いで工事を進めたことが災いして、問題だらけの状態でした。そのため、一刻も早く施設の改良が必要でした。

明治40年からは手宮~岩見沢間の複線化に着手。朝里~銭函間は難工事となりましたが、明治44年までに工事が終了。

関連して、明治44年から朝里~銭函間の張碓の断崖絶壁を貫くトンネルの掘削を開始、翌年に竣工しました。張碓付近は海が近く、崖の上から奇岩が落ちてくるおそれがあったため、安全な列車運行のために改善が必要となっていました。

駅の改良も行われます。停車場の構内を拡張することで、より長い編成の列車を扱うことができるようになるほか、港に接した駅では貨物を扱うスペースを増やすことも行われました。

また、列車の行き違いや退避ができる駅を増設することで、輸送力を増やす取り組みも行われました。明治41年には大沼公園駅が、明治44年には五稜郭・落部の両駅が開業し、列車交換が可能となりました。

急勾配や急カーブを緩和する工事や、橋を改修して強度を増す工事も行われました。しかし、いかんせんかなりの急勾配、改良の費用は高騰します。そのため、改良はある程度であきらめ、そのぶん強力な機関車を使うことで欠点を補うこととしました。

戦時下の輸送力増強

昭和6年、柳条湖事件が発生。日本はここから約15年におよぶ戦争の時代に突入します。

戦時中は大量の人・物の動きが起き、それに対応して輸送力が増強されました。

日中戦争が起こると、軍需物資の輸送が最優先とされ、スピードよりも輸送力を重視するダイヤが組まれました。輸送量こそ増えましたが、所要時間が増大し、質の面ではサービス低下となりました。


図1:渡島海岸鉄道が戦時買収され、大沼電鉄が不要不急線となり、ともに函館本線の砂原支線に取って代わられた

戦時中には、インフラ面でも輸送力増強が図られました。函館本線・室蘭本線複線化計画が、その最大の目玉です。

函館本線の函館~小樽間はこの時点で全線単線。室蘭本線は、室蘭~東室蘭間・幌別~竹浦間・苫小牧~沼ノ端間が複線化されていましたが、単線の区間が多い状態でした。

昭和17年に函館本線の函館~五稜郭間・室蘭本線の東室蘭~鷲別間が複線化されたのを皮切りに、翌18年には室蘭本線の鷲別~幌別間、19年には函館本線の五稜郭~桔梗間・室蘭本線の本輪西~東室蘭間、20年には函館本線の軍川(大沼から改称。現在は大沼に再改称されています)~森間、石倉~野田生間が複線化されました。

このうち、軍川から森までは駒ヶ岳山麓の急勾配区間。ただ複線化しても、勾配がネックとなり、輸送力を思うように増やすことができません。今でこそ駒ヶ岳まわりの区間はハイパワーな気動車特急が勢いよく駆け上っていきますが、当時は蒸気機関車が主力で、しかも重量級の貨物列車を通す必要があったため、勾配は大きな障害となっていたのです。

そのため、勾配の緩い砂原経由の線路(砂原支線)を敷設して、もともとの駒ヶ岳まわりの線路と合わせて2線とするのが得策と判断されました。

この工事を行うため、森~砂原間ですでに列車を運行していた渡島海岸鉄道を戦時買収し、改良・延伸して函館本線の一部とすることとなりました。

渡島海岸鉄道は、森から砂原にかけての海岸の海産物を運ぶために建設された私鉄で、森駅で省線と連絡する部分の設計が難航したため、近辺に一旦「東森停車場」を仮設置して昭和2年に東森~砂原間を開業させ、翌年に森~東森間も開業させました。同時に東森停車場は廃止されましたが、昭和9年にはそれとは別に、海産物の工場の近くに東森停車場が開業しました。

ところが、貨物の陸運への転移が一段と進み、連絡船1隻分(ワム換算44両)以上の輸送力を持つ貨物列車を通せる路線スペックが要求されたため、勾配緩和のため渡島海岸鉄道の路線の半分が放棄されることとなりました。さらに、国家買収後には東森以東が完全に放棄され、森~砂原間は「買収路線」と呼べるか怪しい区間となりました。まあ、江若鉄道とおんなじようなものでしょうかね。

ともあれ、渡島海岸鉄道は昭和20年1月に買収され、廃止となりました。

これとは別に、軍川から鹿部(現在のJR鹿部駅とは位置が大きく異なります)までを走っていた大沼電鉄という私鉄がありましたが、函館本線砂原支線と並行することとなったため、同年5月に不要不急線として廃止されています。

こうして、函館本線は一部複線化によって勾配を緩和したことで輸送力を増し、決戦に備えました。


日中戦争ただ中の昭和15年、道内の急行列車は初めて3往復に増発されましたが、その後アジア・太平洋戦争が始まり、状況は変わります。

昭和18年からは「決戦ダイヤ」を敷いた日本。昭和19年には、さらなる軍需輸送の必要から、旅客輸送が大幅に削られ、東北・北海道の急行列車が大幅に減らされました。昭和20年3月には、道内の急行が消滅。

昭和20年7月には、米軍の攻撃により青函連絡船全船舶が航行不能となりました。鉄道史的には、まさに「敗戦」を象徴する出来事のひとつといえるでしょう。

もうこうなると、悠長に複線化を進める余裕もなかったか、複線化計画のうち桔梗~軍川間・竹浦~苫小牧間は中止されました。

人・物の輸送がまともに成り立たない状態の国家が、大国の連合を相手にできるはずもありませんでした。かくして昭和20年8月15日、あの玉音放送がラジオにて流れたのです。

敗戦から特急前夜まで

敗戦国となった日本には、地獄のような日々が待っていました。鉄道においても、それは同じでした。

燃料である石炭が大量に不足しており、戦後すぐの昭和20年秋に函館~旭川間の急行列車が復活するも、冬には廃止されるという有り様。スピードも当然期待できない状況で、本州と北海道の間の所要時間も大幅に伸びることとなりました。もっとも、戦後の混乱や困窮を考えると、長距離を移動できるような余裕のある人もそうそういなかったとは思いますが……。

全滅を喫した連絡船はさらに酷い状態でした。戦後すぐに船や岸壁をフル活用して何とか輸送にあたるも、8月にGHQ命令により運航を止められました。同月にはすぐに運航再開、翌月には正式な運航再開の許可が出て船便の数も増えました。しかし、何もかもが足りない中での運航は、船の寿命を大きく縮めてしまいました。船の痛みは、定時運航ができないという深刻な問題を発生させました。

その一方で、昭和21年からは連合軍専用列車が設定され、ボロボロの一般列車をよそに最優先で運転が行われました。

連合軍輸送列車は、2月11日から上野~札幌間を運行する専用列車1101・1102列車(上野~青森)および非専用列車13・14列車(函館~札幌。15日から専用列車8003・8004列車)が登場。4月にはそれらに代わって専用列車である1201・1202列車(本州・北海道で同一の列車番号)が設定されて「ヤンキー・リミテッド」の名称が与えられ、1101・1102列車は日本人も乗車可能となりました。(なお、1101・1102列車を「ヤンキー・リミテッド」、1201・1202列車を「ヤンキー・クリッパー」と呼んでいたとする文献が存在しますが、同じ文献内の写真資料と食い違っており、信憑性は低いと言えます。)

専用列車は11月から函館~札幌間で海線を走るようになりました。海線経由の函館~札幌間主要列車第1号といえるでしょう。


このように辛酸をなめた東京~北海道間の輸送が改善するのは、昭和22年6月29日のダイヤ改正のことです。上野~青森間・函館~札幌~旭川間にようやく一般の急行列車が復活。上野~札幌間の所要時間は下りが32時間46分、上りが35時間35分。2泊を要するという長さながらも、本州~北海道間のメインルートが息を吹き返しました。

昭和24年には道内の定期急行が2往復に復帰。昭和25年10月にはスピードアップされ、上野~札幌の最短所要時間は下り26時間5分・上り26時間41分とだいぶマシになったとともに、車内設備も食堂車・寝台車などを用意できるようになりました。

同年11月には、全国の急行・準急列車に愛称が与えられることとなりました(列車愛称は昭和24年の特急「へいわ」が初、その他ごく一部の列車のみ愛称が付されていた)。北海道では、翌昭和26年に、函館~札幌~網走間の急行に「大雪」、函館~札幌~釧路間の急行に「まりも」の愛称が与えられました。

その後、「あかしや」「石狩」「すずらん」と言った列車が登場し、函館本線は一気に賑やかになっていきました。

このうち「すずらん」は少々複雑な経緯のある列車です。先述の連合軍列車が昭和27年4月に「特殊列車」となって、一般の日本人も乗れるようになったのですが、翌々年にこの列車の函館~札幌間が「洞爺」と名付けられ、さらにその2年後には一般の定期列車に変更となったうえ、「すずらん」と改称したのです。

その「すずらん」は昭和35年に気動車化(キハ55系。ただし冬季は普通車のみキハ20系に変更されていたようです)されて函館~札幌間の最短所要時間を5時間とし、客車時代から1時間13分も短縮しました。時刻はまりもと似通っていましたが、海線まわりとあって俊足で、まりもから乗客を奪って人気列車になるのが予想されたため、当時の急行列車としては異例の全車指定席で運行されました。

戦後15年で、速度アップ・増発・サービス改善などによってだいぶ華やかになった函館本線。しかし、函館~札幌間の優等列車網は、昭和36年以降にさらに大きな変化を見ることになります。

昭和22年6月
急行7・8列車(函館~旭川。函館~札幌間夜行)設定
昭和23年7月
7・8列車は1・2列車に変更
不定期急行2003・2004列車(函館~岩見沢)設定(翌年9月まで)
昭和24年9月
1・2列車が昼行列車に変更、網走まで区間延長(旭川以東は普通列車)
急行3・4列車(函館~釧路。札幌以東準急)設定
昭和25年10月
3・4列車が全区間急行に変更
昭和26年4月
1・2列車に「大雪」、3・4列車に「まりも」と命名
昭和27年4月
連合軍専用だった急行1201・1202列車(函館~札幌、千歳線経由)が特殊列車に変更
昭和27年9月
「まりも」が根室まで区間延長(釧路以東は普通列車)
昭和28年4月
急行「あかしや」(函館~札幌)新設
昭和29年5月
あかしやが準急「石狩」(大雪・まりもと当時に命名された)と統合、函館~小樽間急行・小樽~旭川間準急になる
昭和29年10月
1201・1202列車に「洞爺」と命名
昭和31年11月
洞爺が一般列車化、「すずらん」に改称
あかしやがカタカナの「アカシヤ」に改称
昭和33年10月
不定期急行「石狩」(函館~札幌、千歳線経由)新設(大雪の補完で、海線経由だが遅い)
準急「狩勝」(函館~釧路)・「はまなす」(函館~網走・北見以東普通列車)の2階建て列車命名(函館~札幌間夜行)
昭和34年9月
大雪の運行区間が函館~旭川間に
アカシヤが函館~旭川間全区間で急行に
昭和35年10月
すずらんを気動車化、下り所要時間が5時間に

「北の特急(+α)図鑑」のトップに戻る

当サイトトップページに戻る