「ゲニウス(北)の北海鉄旅いいじゃないか」

……ゲニウス(北)がお送りする、北海道を中心とした旅行・鉄道情報サイトです。

  1. トップページ >
  2. 素人流・鉄道観察 >
  3. アネックス >
  4. 北海道胆振東部地震から1年 「9.6」を振り返る

北海道胆振東部地震から1年 「9.6」を振り返る

記事公開:令和元年9月6日

平成30年9月6日。北海道胆振東部地震(以下、「胆振地震」)が発生した、その日です。

北海道で観測史上初となる震度7、震源から数十キロ離れた札幌市の複数箇所で液状化、そしてわが国では過去に例のない「ブラックアウト」。胆振地震は多くの禍を生み、そして北海道民に多くのことを問いかけました。

あれから、はや一年。ちょうど一年ということで、今回は「9.6」を振り返ってみようと思います。それを通して、いま北海道が、道民がなすべきことは何なのか、当サイト流に考えてみます。

ドキュメント 胆振地震40時 ~とある札幌市民の受難~

"Earthquake"――それは、何の前触れもなく、それもボクにとって最悪のタイミングといっていい一瞬に、札幌の大地を揺らしました。

その幾分後に襲来した、闇の化身。人口五百数十万の大地を一瞬にして氷漬けにし、人々に深淵を垣間見せました。その名は、"Black Out"。

これは、地震と停電による不自由と恐怖と闘った、個人サイト管理人の40時間の記録です。

……まぁ、しょせんは貧弱一般市民でしかないでくの坊のドシロート文章でしかないので、何の意味もない記録なのかもしれませんが。

札幌を激震が襲った

9月6日、午前3時。ボクは、実は起きていました。

当サイトの記事「北!鉄!ニュースライナー 第2回」の執筆作業を急いでいたボクは、ついつい時計を見るのを忘れて、数時間の間作業に没頭していました。気づけば、時刻は3時。

ふと時計を見、夜更かしをし過ぎたことに気付いたボクは、慌ててPCの電源を落とし、床に就くべく準備を始めました。

そして、前日の用務で汗をかいていた下着を取り換えるため、無防備な姿になった、次の瞬間でした。

――横揺れ。尋常ならざる、不快感。

全身を、冷や汗が駆け巡りました。何かイヤなことが起こると、本能が直感的に感じた証です。

しかし、この時点でそれなりの揺れがあったため、ボクの理性はこの地震を「直下型の震度3」と推定。札幌は地震が少ないとされますが、たまにその程度の地震が発生します。

あるいは、この推定は「こんな無防備な姿の時に、これ以上大きく揺れるなんて想像したくない」……という、「現実逃避」だったのかもしれません。

揺れがいったん収まりを見せた、その数瞬ののちに、到来したS波。揺れは数分の一秒ごとに増大。「……え? (震度)3? 4? ――!!!」

経験したことのない規模の揺れ。そして、緊急地震速報の音。そして、スマホの画面には、「Yahoo! 防災情報」アプリが指し示した、「5弱」の文字。

事の重大さを悟ったボクは、動転しつつも、何とか身を守るべく、とりあえず手近の服をひっつかんで、なりふり構わず着用。案の定、ボトムの下に下着はなく、シャツは前後逆でした。

そして、脱出経路を確保すべく自室を急ぎ脱出(自室と居間を結ぶ空間は狭く、最悪脱出不能になる)。揺れで箪笥の上から落ちたものを踏んづけたのを、この時認識しました。今まで我が家では地震による物的損害を被ったことがほとんどありませんでしたが、物が動いたり落ちたりする音があちこちからハッキリ聞こえ、今回ばかりは地震により被害が出ることを覚悟しました。

自室を出ると、そこは居間。すでに家族が集まり、電気が点いていました。しかし、ボクが居間に到達した数秒後、その光は失われました。地震による停電です。この時は、「まあ、この揺れだもの、そうなるわな……。」くらいにしか考えていませんでした。

暗がりの中、家族とともに居間で地震が収まるのを待ちます。地が唸り、瀬戸物が割れた音が響きます。それは、TVの地震ニュースのVTRで聞いた、他の地域の大きな地震の音と、全く同じでした。釧路や新潟、東北や熊本の時に聞いた音と、同じ音が、今まさに札幌で……。

十数秒後、徐々に揺れは小さくなりますが、完全に収まるまでには時間がかかりました。

3 hours till the light

「来るべき時が来てしまったのだ。」これが、地震が収まった時、最初に思ったことです。

札幌で、経験したことのない震度5クラスの揺れが発生。そして、初期微動の長さ。ここから、ボクは震源を「浦河沖」と推量。そこから札幌までは距離があるため、最大震度「7」の可能性が十分にあると判断し、さらには大津波の可能性も考えました。

ボクは、普段から「釧路沖か十勝沖で最大震度7、札幌で震度5~6」という大地震を想定し、準備を少しずつ進めていました。「いつか札幌にも大きな地震が来る」と、心積もりも一応はしていました。だから、「北海道で震度7」「札幌で震度5以上」はボクにとって決して想定外ではなく、「来るべき時」だったんです。

それでも、「こんなにも早く、しかも想定と違う場所を震源として、大地震が起きてしまうとは……」と、背筋も凍る思いでした。

情報を知りたいという思いと、最大震度と津波警報を見たくないという、2~3秒のせめぎ合いの後、ボクは部屋にあるスマホで地震情報をチェック。(部屋に戻ったついでに服をちゃんと着て、瀬戸物破片対策で靴下も履きました。)

「震源 胆振中東部」「最大震度 6強 安平町」――内陸の地震と判明。前の年にも地震があった場所なので、それ関連かな、と推測。

また、非常持ち出し袋に入れておいた手回しラジオ(あって良かった……)を取り出し、クルクルと十数回ハンドルを回して、AMラジオを受信。

「津波の心配なし」――とりあえず津波だけはないことが明らかとなり、まずは安心。自分が想定する最悪の事態には、今回は至りませんでした。


……いや、「安心」はできない。強い地震の後は、必ず余震が来ます。

割れた瀬戸物の整理や被害状況の確認をするうち、案の定余震が発生。震度は2か3だったと記憶しています。「さらに揺れが強まるんじゃないか」との恐怖との闘い。心臓が飛び出しそうな十数秒間が終わると、周囲は再びラジオの音だけが鳴り響く静寂な空間に戻りました。

ここから数時間にわたり、余震の恐怖との闘いが始まります。本震の発生は午前3時すぎ。夜明けまでは2時間ほど、空が明るくなるまではさらに1時間かかります。部屋の電気が点かず、暗闇に閉じ込められた状態で、いつ、何回、どれほどの強さで襲い来るとも知れない余震に、警戒し続けることとなります。

電気はいずれ復旧するにしても、少なくとも夜明けまでは暗いまま。充電ができないのでスマホで時間つぶしというわけにもいきません。ましてこの状況で寝るなんてありえません。怖いですし、何より眠気なんて吹っ飛んでしまいました。

というわけで、当サイトの強化のための勉強用に買ってあった「ミクロ経済学」の教科書を読みつつ、夜明けを待つことにしました。(こんな状況では頭に入りませんでしたが……。)

明るくなるまでの3時間。何度も地が鳴り、体が揺さぶられます。そのほとんどは最大震度3以下の比較的小さなものでしたが、それでも毎回、大きな揺れを恐怖します。もし最初の地震が「本震」ではなかったら……と考えると、余震だと決めつけて軽んじることができないからです。

部屋には戻らず、ラジオの音とボクが教科書のページをめくる音だけが流れる居間で過ごし、揺れが来たら避難しやすい場所に家族で固まる。そんなことを繰り返し、だんだんと気が滅入っていきます。

それでも、徐々に夜明けが近づき、空が少しずつ彩りを取り戻し始めます。やっとこさ光明が見えてきたかな、と感じたころ――

その光明が、突如として雲に隠れてしまうこととなります。

全域停電

「おいおい、ネットの情報だろ? 鵜呑みにするもんじゃないよ」

ボクは、スマホから得た情報を読み上げた家族に、そう言い放ったのです。

しかし、それはガセなどではなく、ボクら北海道民の前に突き付けられた、あまりに残酷な「現実」でした。


「北海道全域で停電」

「復旧のメド立たず」

これを事実だと認めるには、ずいぶんと時間がかかりました。

大きな地震が起こったら、安全のため停電が起こる。それは知っています。震源の場所が場所なので、苫東厚真火力発電所が(被害の有無にかかわらず)ストップせざるを得ないことも、じゅうぶん理解できます。

それでも、この事態は信じがたいものでした。だって、胆振で起こった地震で、道北も道東も引っくるめて停電なんておかしい。それに、発電所が1か所やられただけで、復旧のメドが立たないような事態が来るなんておかしい。

それも無理はありません。今回起こったことは、「日本史上初」の出来事だったのですから。

「ブラックアウト」――苫東厚真発電所がダメージを受けて停止し、電力需給のバランスが大きく乱れたことで、北海道電力の送電線を流れる電気の位相が大きく揺らぎ、道内の他の火力発電所が次々と停止。結果として、北海道電力の全ての発電所がストップしたのです。

夜が明けるまで待てば、とりあえず明るくなるから、危険は減る。その中でとりあえず生活していれば、そのうち電気も戻るから、すぐ日常に戻れる――ボクの楽観的な青写真は、黒の世界へと沈んでいきました。

穏やかな晴天、止まった街

朝。やっぱり、電子レンジも、トースターも動きません。「ブラックアウト」、ボクらはその中で生きるほかありません。

とはいえ、ガスは生きていました。また、高層マンションではないので、水道もセーフ。ライフライン全ストップという事態にはなっていないので、この程度で動じてもいられないところです。

電気がなくても、食パンとバナナを食べるのに困ることはありません。パン派の我が家にとって、普段と大きくは変わらない朝食でした。(ちなみに、家族の中でボクだけはパンと米の中立派。)

歯磨きなどを済ませたら、この日の予定をすべてキャンセルすることを考えます。信号も動かないのですから、そんな中で外出など自殺行為。仮に先方から「地震だろうと停電だろうと来い」と言われようとも、「ふざけるな」と一蹴するつもりで、連絡を入れ……ようとしたら、むしろ先方から連絡が来て、自宅にいるよう言われたので安心。

本震で割れたセトモノの片づけやらなんやら、身の回りを整理して、とりあえず状況が落ち着くと、一気に睡魔が襲ってきました。無理もありません、この日は徹夜ですし、さらに前日は台風21号のため札幌市内は暴風が吹き荒れ、その音でほぼ眠れていなかったので、ほとんど「二徹」の状態でした。眠くないわけがありません。

余震もかなり落ち着き、また日が昇って気温が上がってきたのもあり、睡魔に抗える状態ではなくなりました。抗う理由もないので、しばし惰眠。


電気がないから、鉄道は動きません。高速道路も全て通行止め。おそらくは、港も機能していないでしょう。ということは、物流が完全にストップしている、ということです。

この状況では、食料を手に入れるルートは限られます。

とはいえ、先述の通り大地震への備えはしていたので、非常食はある程度持っています。

なので、冷蔵庫と戸棚のものをまず食べて、それが尽きたら非常食、というフローチャートを頭の中で構築。とりあえず、現下の食糧事情を確かめるべく冷蔵庫の中を見てみると――

「……あかん。」

冷凍室の中から出てきたのは、前日にまとめ買いした、大量のアイスクリーム。電気がないので冷やす手段がなく、このままでは溶けてしまいます。

「……まずはコレなんとかすっか、疲れてるから糖分も摂りたいし」と、みんなでアイスエイヤッ↑(/>_<)/タイム。けっこうな買い貯めがあったせいでこの日はアイスざんまいになってしまいました。どんどん甘ったるくなる口の中。しかも運動なんて悠長なことをする余裕もないので、体が糖分で重くなっていきます。まさか買い貯めがアダになるとは……。

で、アイスの買い貯めがあるという点からお察しの通り、前日の買い出しによって冷蔵庫の中にはたくさんの食材が入っている状態でした。食糧に困るどころか、むしろ腐らないように食べちゃう必要がありました。

食料不足の憂いがひとまずなくなったので、ひとまず他のことをして過ごすことに。


空は、スッキリ晴れていました。かえって皮肉られているかのような、澄んだ初秋の青空。

外の様子を確認がてら、アイスの食べ過ぎの体を少しでも動かすのに、午後からちょっとだけ外出。やはり家の近くの信号は点いておらず、通る車もふだんの10分の1もいません。

普段よりも、さらに静かな街並み。まるで、時間が止まってしまったかのようです。

静けさに包まれた街。電気がないのでやることも少なく、のんびり流れる時間。穏やかな空。ゆっくりと沈みゆく太陽。やがては、この街はふたたび闇の中へ……。

……なんか、ゲーム"Minecraft"の世界に放り込まれたような感覚がしました。太陽が沈んだら実質1日が終了するところとか、そっくりだとしか思えなくて……。

ともかく、用事のない外出は体力のムダ遣い、かつ無用の単独行動となるので、早々に切り上げて自宅に戻りました。

再び訪れる、夜の恐怖

太陽が赤く燃え、そして西の空へ沈んでいきます。そして札幌の街は、地震直後と同じような、黒の世界に。

結局、電力復旧は見通せないまま。

しかも、最初の地震の最大震度が、いつの間にか「7」に変わっていました。震源付近で唯一震度がわかっていなかった厚真町で、震度7の揺れが起きていたことがわかったためです。「地震から1時間以内に震度が判明しない」という時点でイヤな予感はしていましたが、的中ということに。改めて、事の重大さを思い知らされます。

起きてしまったことをとやかく言っても仕方がないので、まずは夕食をなんとかしなければ。

もっとも、ガスは使えるので肉は焼けます。お米も、ほとんど経験はないけれど、ガスでなんとか。ちょっと焦げましたが、たまにはそんなのもいいか。

食卓を照らす電灯は、供給源を失って困っています。やむなく、仏壇などのローソク・キャンドルを総動員して照らします……が、なんか生贄になりそうな感じがしたのでやめ。というか、余震で倒れたら危険なので、ネットで見た懐中電灯とペットボトルで作る即席ライトに置き換えました。

暗い中で、いつもと違う炊き方で炊いたご飯をほおばる。これもまた経験だな、などと言いつつ、とりあえずは腹ごしらえ。

その後、やることもなく過ごしていましたが、ふとカーテンをめくると――

その先に広がっていたのは、ふだんの札幌市街では絶対に見られないもの。そう、満天の星空です。

空一面に広がる星々。思わず心を奪われそうになりますが、これを札幌で見られてしまうという事実に、あらためて今置かれた状況を理解し、感動ではなく落胆のため息。

その先の心配もしなければならないわけで、呑気に星を見ている気にもなりません。しばし眺めて、家の中へ。


人間は、本能的に「闇」に対して恐怖を覚えます。でも、自他ともに認めるチキンのボクにとって、闇とは並々ならぬ恐怖でした。

でも、暗闇の中家の中を移動するのは、日常生活でもままあること。それなのに恐怖を感じたのは、「地震」を意識せざるをえず、それが恐怖を何十倍にも何百倍にも、膨れ上がらせたから。

ペットボトルで照らされ、万一の時のリスクも比較的少ない、我が家の居間。そこから動くこと自体が怖く、足が震えました。

風呂場も怖い。この状況下で暗い中の移動というだけで怖いし、入浴中でなんの防具も装備していない時に大きな揺れが来たら対処できない。

自室も暗いし、何より閉じ込めのリスクがある。自室さえ、怖い――。

そんな中でも心を落ち着け、次の日のことを考えていた、その時。数時間にわたって黙り込んでいた大地が、再び揺れ動きました。

ごく小さな揺れ。それでも、恐怖は何倍にも膨れ上がります。

体が小刻みに震えるのを抑える技術と精神力を、ボクは持ち合わせていませんでした。


暗闇と、地震。恐怖を紛らわせるには、音を出すしかありません。

電気がなくても使えて、音を出せるもの。となれば、手回しラジオ。FMノースウェーブに周波数を合わせ、ハンドルをグルグル。

ラジオでは、音楽番組が流れていました。リスナーからのリクエストは、いわゆる「人生の応援歌」的なソングが多数。

リスナーからは、「部屋で暗がりに震えながら聴いています」とか、「地震が怖い」とか、そんな声が届いていました。

パーソナリティはそれに応え、「こんな時だからこそ、音楽を聴いて励みにしよう」と、明るくトークをしていました。

普段は全然聞かないラジオ。それでも、なくてはならない存在なんだと、痛感しました。

そうこうするうち、日付が変わろうかという時間に。ずっとラジオを聴いているのも、家族とはいえ他人との共同生活なのでしんどいものがあります。音を消して、真っ暗闇の、しかも閉じ込められるリスクのある自室に行かねばなりません。

かなりの勇気が要りました。

なんとか自室に入ってからも、寝ようという気にはなかなかなれず。(昼にタップリ寝たからあんまり眠気がなかったのも、寝る気にならなかった一因……。)

小説「デルトラクエスト」の主人公よろしく、トパーズを触って気持ちを落ちつけたい、という気持ちでした。

それでもなんとか睡魔を呼び寄せ、就寝。長かったのか短かったのかよくわからなかった、被災初日が終了しました。

被災2日目

地震から、2度目の朝。この日も天気は良く、室内はすっかり明るさを取り戻していました。

この日もトーストしていない食パンを頬張り、電気の点かない洗面台で陽光を頼りに歯を磨く(といっても、洗面所には朝日が強く差し込むので、普段から朝は電気点けてません)。そして、この日もまた自宅待機の指示を受けて、ゆっくりとした時を過ごします。

時が止まった街を生きる我々の持ち札は、徐々に失われていきます。まずは、携帯電話の充電。運の悪いことに、地震前の携帯の充電残量は半分を切っていました。情報収集などは最低限に抑え、電池を消費しないよう努めていましたが、そろそろ限界。

ここで、隣人がシガーソケットに接続できる充電器を持っていたので、救われました。その隣人の方、およびボクはハイブリッドの自動車を持っているので、バッテリーがしっかりしてる分充電によるバッテリー上がりのリスクも少ないです(たぶん)。やっぱ時代はHVだじぇ。

ノートPCにもいちおう充電は残っていましたが、電池の消耗を抑えてPCを長持ちさせるために充電を半分に抑える設定にしているので、残量は心許ない状況でした。最後の手段として残しておくことに。

電池だけではありません。冷蔵庫の中身も、徐々に不安になってきます。電気が通じない状態なので、生鮮食品はそろそろ維持困難。牛乳などの飲み物も、ダメになってしまうでしょう。

米はまだありますし、いざとなったら非常食を使えばいいので、とりあえず生きることはできますが、それでもこのままの生活が続けば、食べ物のレパートリーは大きく狭まります。

たった1日でも、同じものを、しかも甘いものを食べ続けることがどれほど辛いか。今までの防災対策ではあまり意識してきませんでしたが、前日のアイスざんまいでそれを痛感することとなりました。

「食べられるものの種類が激減する」。これは、自分だけでなく、家族にも大きな精神的負担になるでしょう。そうなると、さらに余裕がなくなってしまいます。

今は、まだ大丈夫。でも、このままでは破綻する。手持ちのカードを少しずつ切っていくと、いつかはゼロになる。焦燥感は、初日の比ではありませんでした。


電力は、復旧作業が進んでいました。

ブラックアウトの時の復旧手順は、まずはすぐ復旧できるエンジン発電機持ちの水力発電所を復旧し、その電力を頼りに、火力発電を一基ずつ復旧させる、というものです。

電力復旧は旭川方面が早かったです。これは、火発で最初に復旧したのが砂川火発だったからです。

初日はほとんど電力が戻らなかった札幌市ですが、2日目になると、札幌市内でもだんだんと電力が戻っていきます。しかし、電力が戻ったエリアは一部で、しかもあちこち飛び地するような復旧でした。

この日の午後には自宅のすぐ近くに電力が戻ったにもかかわらず、我が家は相変わらず無電源。もどかしい思いでした。

今思うと、まだらのような形で電気を復旧させることで、まったく電力がない地域というのを減らして、「稼働している病院が近くにない」人を少しでもなくしたりするのが目的だったのかなと。近くの家で電気が戻っていれば、最悪携帯電話などの充電をお願いしにいくこともできますし。

ただ、停電のさなかにいるとそういう発想をするのは難しく、苛立ちが募りました。


この日のミッションには、「当サイトの記事の推敲」を選択。実は、推敲用に記事の原稿をプリントアウトしたものが部屋にありまして、停電していてもサイト関連の作業ができる状態にありました。

赤ペン片手に、A4用紙に所狭しと並ぶ文字に、修正を加える。ライターの方とかならわかると思うんですが、けっこう骨が折れる作業です。

この日他に何をしていたか、今となってはあまり思い出せません。ということは、この作業にかなりの時間を使ったものと思います。

静かな街の中、静かな家の中、黙々と赤ペンを走らせる。それしか、すべきことがない生活。

近づく夜の闇、蝕まれる心

そうこうしているうち、2日目も終わりに近づきます。それは、札幌がみたび、闇に包まれることを意味しています。

暗がりへの恐怖と、地震への恐怖。これらがない交ぜにまって、胃液を押し上げます。

「闇の中で地震に怯える生活」を一度経験してしまった。だからこそ、二度目の日没は、前日のそれよりも、はるかに強く、まるで人智の埒外から心が締め上げられているかのようでした。

赤ペンもしばしば動きを止めてしまいます。これでは前に進めない。ボクは再び、ラジオに精神力の担保を求めます。

流れてきたのは、音楽番組「ネッツトヨタ札幌 Cloud Nine!」でした。しめた、音楽が流れていれば気が紛れます。

電気が使えなくても、ハンドルをグルグル回せば、とりあえず音が流れる。運が良ければ音楽番組をやっていて、音楽が聞ける。ラジオは、いざという時こそ必要とされるんだな、と再確認。

スピーカーから聞こえてきた冠スポンサーさんの社名。「ジブン電気ないから店開けれてやんのやろ?」と無粋なツッコミを入れてしまいましたが、そんなこととは関係なくスポンサーだから社名が番組名に入っているだけなので、それ以上はやめておいて、作業に戻りました。

ともかく、手回しラジオから伸ばした1本の細いアンテナを、精神の糸の補強材として、夜を迎え入れることとしました。

音が出続けていないと、すぐ不安になる。CMの入りや音楽の切れ目、そのたびに冷や汗が流れる。なかば中毒のような状態で、ラジオからの音波をキャッチするのに聴覚のほとんどを割り振ります。

乳幼児は、「それを握っていれば安心できる」というようなシーツや遊具などを持つといいます。しばしばブランケットがそれであることから、「セーフティブランケット」と呼ばれます。ブラックアウトのさなか、ボクがブランケットがわりに掴んだものは、ラジオの電池がなくなってしまえばいとも容易く途切れてしまう、水面に浮かぶ藁のようなものでした。


ラジオの音は、ボクにはいっときの気休めでしかありませんでした。

心は震え続ける。停電の中での生活が続くにつれ、精神体力は削られていたのです。

それだけではありません。脳裏によぎるのは、2年半前に起きた熊本地震。4月14日夜の大地震からわずか1日半後、16日未明に本震が襲ったのです。

最初の地震から1日半が経過。ということは、熊本のリプレイが、いま札幌で流れてもおかしくない――

根拠はまったくありません。でも、どうしてもあの地震を思い出して、恐怖してしまう。おそらく、多くの札幌圏の住民が、同じ思いを抱いたことだと思います。

ただ、一つだけ、熊本と違うことがありました。「余震が少ない」んです。最初の数時間は何度も地震が襲い来たのに対し、初日の正午以降はかなり落ち着いています。

でも、だからこそ逆に不気味。そんな言い方もできます。

――と、来るかどうかわからない地震への恐怖が、脳の中でスパイラルしてしまいます。ふだんから様々なケースを想定して準備をしているということもあり、どうしても「悪い想定」ばかりが頭に浮かびます。

考えても仕方のないことなのに、堂々巡りを続け、一周するたびに精神がやられていく……。

そんな中でも、夜に向かって生活を送っていかなきゃ、それはそれでやられてしまいます。

ボクは、鉛のような飯を食いました。

それらを胃の中にどうにか押し込んだら、暗闇の中を風呂場まで行って、無防備な姿でいる時間を最小限にとどめるためにせかせかとシャワーを浴びて、次こそは倒れるかもしれないタンスの先にある自室に帰って、闇に怯えながら布団にくるまるんだ――

灯光、そして日常へ

「点いたわ」

夕食を食べてしばらくの後、家族が付近の街灯が点いたのを確認。我が家も念のため落としていたブレーカーを上げ、居間の電気をオン。何事もなかったかのように、LED電球は見慣れた白色の信号を現示しました。

風呂場や自室の電球も、トイレの換気扇も、冷蔵庫もTVも無線LANも、2日前の晩と同じように動作しました。

さっきまでとは、比較にならない明るさ。一気に和らいでいく緊張。先ほど"Minecraft"がどうの、と言いましたが、この時の感覚はまさに"Minecraft"のようでした。

"Minecraft"では、松明が重要アイテムです。松明がないと、暗闇にモンスターが現れ、夜の間はモンスターと交戦しつづけるか、逃げ続けるか、囲いを作って暗い中を震えながら朝を待つしかありません。

そうならないように普通はゲーム開始から最初の夜までに松明をそろえておくものですが、他の作業に気をとられてしまい、ついつい遅れることがあります。

迫る夕闇、モンスターの気配。あせって石炭(または木)を探し、急いで囲いを作って、松明を作ったら、もう暗くなってしまった囲いの中に、松明を設置。一気に明かりに照らされる周囲――この時の感覚に、ボクが体験した「電力復旧」がすごく似ていたのです。

松明を設置する時の「ポン」とも「トン」とも聞こえるようなゲームの効果音が、居間の電気が点いた時に、ほんとうに聞こえたような気さえしました。

こうして、地震発生から電力復帰までの約40時間が終わりました。


電気は点いた。これで、暗闇、携帯の充電、食糧、その他いろいろな問題が一気に解決に近づきました。

PCも心置きなく使えるので、とりあえずサイト更新。ラクな作業を選んで、数十分で完了。読者の方、一人くらい安否を気にかけてくださっている方がいるだろうな、と思い、急いで作業しました。

あとは、徐々に日常に戻っていくだけ。そう思い、気が緩んだ。その瞬間を、大地が待っていたかのように。

「――!!」

体が揺さぶられます。震度3くらいでしょうか。戸棚が音を立て、その音が耳管を伝って脳髄をえぐります。

避難経路確保のため、玄関を開放。それからほどなく地震は収まりましたが、なぜか収まった後に、家の外のどこかから「ガラガラガッシャーン!!」という音が聞こえてきました。

今思うと、あれが「心が壊れる音」だったのだと思います。

電気は点いたのに。消えていないのに。再び、居間の真ん中から動けなくなりました。震えが止まらない。体の震えも。心のほうも。必死に守ってきた精神の糸の、最後の一本が、プツッと切れてしまったようです。

落ち着きを取り戻すには、けっこう時間がかかりました。

自分の心を引き戻したのは、「睡魔」でした。恐怖に震えているうち、疲れて眠くなってきました。

だいたい人間ってヤツぁ、寝たら精神がある程度リセットされるようになってんです。ある種、防衛機制として睡魔が発動したのかも。

そもそも、電気が点いたんだから明日はいつも通りの忙しい日常が待ってるワケで、寝ない理由がありません。半ば条件反射で翌日の用意をして、就寝。これが……社会人ッ……!


被災3日目、9月8日。いやもう自分が住んでるエリアについてはほぼ日常が戻ったので、「被災」はもう適切ではないか。

街は信号も動いていて、いつもの表情にだいぶ近づいていました。地下鉄は平常通り動いていたので、目的地に問題なく着けることが確定。

2日も体を動かさない生活をしていると、さすがに動きたくなるもの。いつもはしんどい一日の始まり、でもこの日は、足は重くありませんでした。心は重いけど……。

ともかく、地下鉄に乗車。もともと土曜日なので朝の地下鉄はそこまで混みませんが、やっぱりというか、この日はいつもよりさらに空いていました。

地下鉄は独特のモーター音で軽やかに加速し、日常へと向かっていきました。

激動の40時間の、その後

地震と停電についての体験ルポは以上ですが、その後日談みたいな話を少々。

安定しなかった電力供給

電力の復旧が進んだ後も、苫東厚真発電所が機能を停止していたため、しばらくは電力供給が安定しない状況が続きました。

そのため、北海道では午前8:30から午後8:30まで、「2割」という厳しい数値目標付きの節電要請が出されました。

この影響で、夕方の電力ピーク時間帯を中心に、JRの列車が一部運休しました。旭川方面は列車間隔がかなり空いてしまう状況となり、ただでさえ地震の影響で利用が落ち込んでいるところに追撃を食らわせる形になってしまいました。

近年、札幌~旭川間の特急列車は利用者離れが止まらない状況ですが、この件がそれに拍車をかけてしまったんじゃないかと懸念しています。

また、北海道内では企業の間で節電の動きが広まり、商業施設などが電灯を一部消し、薄暗くなりました。

個人レベルだとあまり積極的な取り組みがあったようには感じられず、街を歩いていて「みんな、状況がわかっているのかなあ」と思うこともありましたが、それでも企業や一部家庭の節電の甲斐あってか、計画停電が必要になるほどに電力が逼迫することはありませんでした。

その後、苫東厚真火発が順次復旧したことなどにより電力需給が安定するにつれて、「2割節電」から「無理のない範囲の節電」へと文言が変わり、やがて平常に戻っていきました。


ボクにとっては、この節電は「電力供給のピーク」がいつなのか知る機会になりました。

この節電期間中、ボクは北海道電力の「でんき予報」で、電力の需給状況をこまめにチェックしていました。

その結果、北海道では冷暖房があまり必要ない9月という時期において、電力のピークは夕食時間に差し掛かる夕方頃とわかりました。

企業活動が一段落する一方、帰宅時間帯以降は家庭での活動が活発化し、夕食を作るのに電子レンジを使ったり、TVを見ながら食卓で団らんしたりと、家庭が電気を多く使う時間帯だから、というのが容易く読み取れます。

ただ、冷暖房を使う時期になると、ピークタイムは違ってくるでしょう。時期が違えば、こういう場合の対処もまた変わるわけですね。

今までは、電力の「ピークタイム」というものは意識したことがありませんでした。せいぜい、「一日の発電量」と「一日の電力消費量」が吊り合っていればいいんだろう、くらいに思っていました。でも、交通と同じで、「ピーク時の制御」が大事なんだな、と知ることができました。

買いたいものが買えない環境

電力だけでなく、流通もなかなか落ち着きませんでした。

地震から数日後、家の近くのスーパーは阿鼻叫喚。大量の買い物客が押し寄せ、レジには長蛇の列。そして、午前中に行ったのに、すでに食品コーナーからは多くの食料が消えていました。

米やパンは、すべて消え去っていました。非常食があるとはいえ先を考えると不安のあった我が家としても、パンを確保しておきたかったのですが、買えたのは「シベリア」一つだけ。

ただし、グラノーラは案外残ってました。しっかり栄養が摂れて、朝でも食べやすいので重宝するんですが、意外と盲点なのかもしれません。

レジに並んでいる人たちのカゴの中を垣間見ると、まあみんな山盛り。ホントに必要な量なのかと疑うほどです。(我が家もけっこう色々買いましたけどね。)

災害時は、みんな不安になっている。だから、食料を確保したいと思う。当然の心理だと思います。

でも、ふだんからの備蓄をしないで、こんな時に慌てて食料を買い占める、というのはちょっと浅ましいと感じます。

スーパー以外でも、地震後に備蓄用食料の需要が急増したとか。それも同じです。

だって、普段は準備していなくて、何かあった時に慌てて買う、という人が多いと、需給バランスが一気に崩れて、混乱と遅れを招きますもの。「爆買い」を笑ってはいられませんよ?

ふだんからの心がけが、とても大事です。


徐々にスーパーにも日常が戻っていきますが、モノによっては動きが鈍かったです。最たるものが、牛乳です。

停電により、酪農家が持っている搾乳機器がストップ。牛乳が取れないばかりか、乳を絞らないまま機器を付けっぱなしにする状態になってしまうので、牛がダメになってしまったようです。そのため牛乳の供給はそうとう落ち込んだみたいで、道民生活にかなりの影響が出ました。

とくに人口の多い札幌ではもう大変。スーパーにはなかなか牛乳が並ばず、並んだと思ったら高い「牛乳」。低脂肪乳はぜんぜん出てきませんでした。

唯一、独自の販売体制を確立しているセイコーマートはわりと早く店頭に牛乳が戻ってきましたが、それでもふだんよりは安売りを抑えていました。それでも品薄になることも多く、安定して買える状況にはありませんでした。

ただ、札幌から離れたところだとだいぶ状況がマシだったようで、9月17日に訪れた上川町では少ないながらもちゃんと牛乳が入荷していました。

「自前の電力」に集まった注目

停電により、多くの人がダメージを受けました。

次にこういう事態が訪れた時を想像した人たちは、停電時にどうやって電力を得るかを考えました。

そのため、発電機やモバイルバッテリー、そして日産・リーフやトヨタ・プリウスPHVを筆頭に、非常時に外部給電ができるクルマが注目されることになりました。

特にクルマに関しては、セイコーマートが停電時にクルマのバッテリーを店舗に繋いで電力を得、営業を再開したという「神対応」が注目されたこともあり、けっこうな話題になったように思います。

発電機やクルマは安くはありませんが、考えてもいいかもしれませんね。ただ、発電機の場合は室内使用は絶対ダメです。一酸化炭素中毒の事故が、昨年の北海道で実際にあったはずです。気を付けましょう。

地震体験を受けての雑感

ここからはルポという形式ではなく、地震に関するものごとについて、意見や思ったことを書き留めておきます。ホントはそれぞれガッツリ調べて、連載みたいな感じで書くつもりだったんですが、もう1年も経っちゃってるんで備忘録程度の内容にとどめます。

あまりに浅ましい道新の報道

まずどうしても指摘しておきたいのは、当時の北海道新聞の報道があまりにも酷かった点です。

道新は今回の停電について、あたかも北海道電力(以下、「北電」)が故意または過失で停電を引き起こしたような報道を繰り返しました。

今回の停電は、苫東厚真火発が「地震により」損傷したことが引き金でした。北電が注意していれば発電所の損傷を防げた、という類のものではありません。

また、「電力分散化(後述します)ができていれば停電は防げた」と強調したいがあまり、泊発電所が再稼働していないことについて北電を責めるような文言さえ見られました。

原発の再稼働は電力会社の一存で決められることではなく、原子力安全委員会に諮る必要があります。再稼働していないことについて、北電だけに文句を言っても、なんの意味もありません。

そもそも、こうした報道は地震前の道新の報道姿勢と完全に矛盾します。地震以前の道新は「原発いらない」の合唱に迎合し、原発の再稼働に過度に否定的な社説をたびたび掲載していました。その舌の根も乾かぬうちに、ブラックアウトがあったからと態度を180°変える。いくらなんでも節操がありません。

で、またそれで今年になったら、そんなことは忘れたかのように、元通り「原発いらない」の合唱を再開しているんですから、始末に負えません。

原発再稼働の是非についてはここで触れないにしても、誰かを叩くような報道をするために、原発をかくも都合よく利用するというのは、許しがたいものがあります。

さらに言えば、仮に原発が稼働していても、点検などで停止していれば同じことです。ブラックアウトを100%防げるはずはなく、注意していれば必ず防げるというものではありません。


また、いつかJR北海道を攻撃したかのように、電力分散化などの対策をとっていなかったことを「経営側の問題」に落としこんで、北電を非難するような報道もありました。

おかしいのは2点。まず、北電は電力分散化のための事業を、地震前から進めていました。北海道と本州との間で電力を融通する「北本連系線」の増強のほか、石狩湾新港火力発電所の建設を進めていました(平成31年2月に1号機が稼働開始しました)。地震には間に合いませんでしたが、対策をしていなかったわけではありません。むしろ着実に事業を進めていたわけで、それで間に合わなかったのだから仕方ありません。

もう一点、そもそも論として、設備面での対策を北電「だけ」の責任にしようという発想自体が間違いです。

発電は「費用逓減産業」の一つとされています。これはつまり、初期費用や維持費などの「固定費」、つまり売上が多くても少なくても必ず一定額が必要になる費用がそうとう大きいため、大量に電力を売れば1kWhあたりの費用を抑えられるものの、逆に電力消費が少ないと単位あたりの費用がそうとう大きくなってしまう、ということです。

新規参入が難しい分野なので、市場原理に任せるとどうしても独占状態になり、経済的によろしくないことになります。そのため、国が価格規制などを行い、面倒を見る必要があるわけです。

ということは、電力の安定供給を企業活動に100%委ねるのはそもそもが間違い。行政がしっかりと監督することが重要です。

実際、北本連系線の強化については、行政主導で強化を進める動きが出始めています。

ブラックアウト対策は「北本連系線強化」を軸に!

では、今後ブラックアウトをなるべく防ぐにはどうすればいいでしょうか。

要するに、1か所が被災した時、それで電力の需給バランスが大きく乱れることがないようにすればいいんです。

だから、電力を分散化させるのが、解決策となります。

それで、先述した通り、石狩湾新港に発電所をつくって、苫東だけに発電量を依存しないようにしたり、北本連系線を増強して、いざという時に電力を送ってもらえるようにしたり、という事業が進んでいるわけですね。

分散化を突き詰めていくと、「小規模な発電所を道内あちこちに分散して建てる」という形になります。

でも、それはムリです。電力を分散させすぎると、それだけコストがかさんでしまいます。大規模な発電所で一手に電力をつくって、それを全道に供給する方が、「規模の経済」がはたらくから、コストが下がるわけです。

人口密度の低い北海道で、電力会社が経営を成り立たせるには、コストをいかに削るかが大事。小規模発電所を林立して、大規模発電所をそれに置き換える、なんて無茶です。

大規模発電所主体で行きつつ、分散化をある程度実現させるための方法としては、北本連系線を強化するのがもっとも効果的でしょう。万が一需給バランスが乱れても、緊急で電力を融通すれば、ブラックアウトにまで至る可能性はだいぶ下がるはずです。

連系線の容量が多ければ、逆に北海道から本州への売電もできるようになるので、北海道の広い土地や地熱などを活かした発電をして、それを本州に売るというビジネスもしやすくなります。夏の時期は、現状でも北本連系線をフル稼働して、北海道から本州に電力を送っているそうです。それだけ、夏は北海道と本州で、電力の需要に大きなギャップがあるということ。電力自由化の時代における北海道の電力ビジネスのチャンスは、そこにあります。


とはいえ、津軽海峡に海底ケーブルを建設する形になりますので、そうとうなコストがかかります。

ここで参考になる事例が、今年から運用を開始した、北本連系線の増強分のケーブル。従来の60万kWから90万kWにキャパシティを増やすために、地震前から準備が進んでいたプロジェクトです。

このケーブルは、青函トンネルを活用して敷かれたので、そこまで費用はかかっていなかったようです。

そこで、こんな発想が出てくる人もいると思います。「北海道新幹線の高速化のために2本目の青函トンネルを建設する構想があるから、それと一緒にすればいいんじゃないか」と。

現在、北海道新幹線は貨物列車と線路を共有しているせいで、青函トンネルの走行にかなりの制約がかかっています。線路を共有しているので、260km/hでの高速運転の前には線路点検が必要。また、貨物列車とすれ違う場合に、貨物列車のコンテナが吹っ飛んでしまうおそれがあるので、新幹線専用の時間帯を作るなど対策をしないと、そもそも高速運転ができない状態です。比較的遅い貨物列車が、後ろを走る新幹線をジャマしてしまう、ということも多々あると思います。

これを何とかするため、貨物列車用の第二青函トンネルを造り、新幹線と貨物列車を完全に分離する構想が持ち上がっています。

このトンネルを北本連系線の増強にも活用すれば、一石二鳥、というわけです。

もっとも、第二青函トンネルを掘るとなれば、単にケーブルだけ引くよりもはるかに大きなコストがかかります。詳細な建設費の見積もりが出ていないので何とも言えませんが、1本目と同じくらいのコストがかかるとしたら、さすがにメリットを費用が上回るのではないかと思います。

一つの石で鳥を2羽落とすのと、地対空ミサイルを持ってきて鳥を2羽しか落とせないのでは、意味は全然違う、ということです。

北電に損害賠償を求められるか?

地震からしばらく、道新が「コープさっぽろが北電に対し、停電による損害の賠償を求める」という記事を掲載しました。

コープさっぽろは公式Webサイトにてこれを真っ向から否定しましたが、真偽については定かではありません。

もし仮に損賠を請求するとしたら、法的にはどんなことになるか。素人なりに考えてみました。


民法で「損害賠償」に関する規定を見てみましょう。

まず前提として、民法は損害賠償について、「過失責任主義」を採っています。つまり、過失(または故意)がない人から賠償を取ることはできないのです。

で、具体的な規定は2つあります。「債務不履行による損害賠償」と、「不法行為による損害賠償」です。

まず、債務不履行。契約において、債務者は契約の本旨に従い、債務を履行する義務があります。

と履行が遅れたり(履行遅滞)、履行できなくなったり(履行不能)したら、それは「債務不履行」です。債権者は契約を解除したり、損害賠償を求めたりすることができるわけです。

じゃあ、北電は債務不履行の責(せめ)を負うべきか。これは、(当サイトの解釈としては)明確に「否」です。

先述の通り、ブラックアウトは人的ミスによるものではありません。過失責任を問えるような要素は、ないと言っていいでしょう。


不法行為責任についても、認めるのは無理筋でしょう。

「福島第一原子力発電所の事故についての訴訟では、東京電力の賠償責任が認められたではないか」と言われそうですが、それとこれとは話が別です。

福島の件は、原子力発電所です。高度な技術を使っているうえ、取り扱いを誤れば他の発電所とは比較にならないほどの(まさに我々が直面してしまったような)大惨事になる「危険物」です。

だから、他の発電所とは事情が違うので、「原子力損害の賠償に関する法律」という特別法によって、無過失責任が認められます。

それゆえ、原発で事故があったら、仮にその際に「注意していれば事故を防げた(と電力会社が説明した)」ものであっても、賠償が認められます。

でも、苫東厚真は、火力発電所です。原発のような特別法はありません。というか、制定できる根拠もないでしょう。

よって、通常通り過失責任主義が適用されることになります。

もちろん、「不法行為」と言えるような行動は、北電にはありませんでした。よって、不法行為による損害賠償も、不可能と言っていいでしょう。


もし報道が真実だったとしたら、このような「負け確定」の訴えを起こそうとは一体なにごとか、とコープさっぽろの良識を疑いたくなります。

逆にフェイクニュースだったとしたら、「そんなデタラメを流してまで北電を叩いて、一体何になるのか」と、道新の責任者を怒鳴りつけたくなります。

どちらにせよ、こういうことは切に謹んでいただきたいと思う所存です。

地震の教訓を、次への準備に活かす

地震というのは、多くの被害をもたらします。多くの人の、体や心を傷つけます。取り返しの付かないような傷が刻まれることもあります。

でも、それと同時に、地震は「教科書」にもなります。次に来たらどうするか、考えることができるからです。また、生き方とか、いろんなことを考える契機になります。

地震を明日への教訓にして、これからを生き抜く。それが、地震後にとるべき心構えなのだと思います。


で。

ボクは先述の通り、胆振地震のずっと前から、地震に備えた行動を進めていました。

始めたのは、東日本大震災の前。「いつかは札幌に大地震が来る」のは知っていたので、とりあえず各種広報などが出している「準備リスト」に載っているような便利グッズ(笛とかラジオとか)を少しずつ揃えていきました。

大震災は、あまりにも大きすぎました。大きすぎて、「どうやって準備すればいいか」の参考にはなりませんでした。なので、それまでと同じような準備を続けました。

ボクの災害対策を変えたのは、平成28年の熊本地震でした。道路や鉄道が機能を失ったことで物流が滞り、熊本市などで食料供給が覚束なくなりました。大量に送られた食料などの支援物資が、被災地に届かないまま捨てられた、という話も聞いています。

何より必要なのは、水と食料だ。そう気づかされたボクは、保存水と非常食を買い込みました。

それと、酷寒地であることを考え、防寒用にブランケットとカイロを、持ち出し袋に入れました。

果たして、これは正解でした。胆振東部地震においても、ブラックアウトもあって札幌の食料供給はかなり落ち込みました。非常食がなければ、先の余裕がなく、もっと不安な状態になっていたでしょう。

それに、今回はたまたま冷蔵庫がビッチビチだったから助かっただけで、冷蔵庫の中身を切らしていたらと思うと……。

また、同じことが冬に起こったらと想像すると、防寒もかなり重要だと再確認できました。暖房やストーブが使えなくなるから、凍死する危険があります。


今回足りないと感じたのは、「電気」と「光」でした。

今回、携帯電話の充電に困りました。そして、光がない状態がどれほどの恐怖か、ということも思い知りました。

もちろん水と食料が優先ですが、持ち出し袋の空きスペースには、電気と光を供給できるアイテムを優先して入れた方が良さそうです。

今回は、ボクが想定するケースの地震、つまり「太平洋側で巨大地震、札幌でも震度5~6」というケースではありませんでした。でも、いつかは来ます。それに向けて、今回の経験を活かしつつ、準備を進めようと思います。

「安全神話」「反動形成」は誰も幸せにしない

ネットなどで、今回の地震・停電について挙がっていた意見を読んでいて、思ったことなどを軽くまとめておきます。


第一に、「安全神話」なんてない、ということ。

ブラックアウトは、世界のどの地域でも、100%未然に防げるものではありません。絶対はありません。そこを肝に銘じるべきでしょう。ブラックアウトをなるべく起こさないようにするのは大事ですが、限度があります。

熊本地震の時も、直下型地震で新幹線が脱線したからと文句を言う人たちがいましたが、そんなの無茶です。橋脚にもダメージが入りましたが、設計強度を超える強さの地震が来たんだから仕方ありません。どんな状況にも絶対耐えられる設備なんてありえません。どこまで耐えられるようにつくるか、それを考えることが大事です。


第二に、「反動形成」はやめておけ、ということ。

「だから電気は頼りにできない、ガソリンとガスがやっぱりいい」なんて意見が、結構出ていたものです。

停電時に使えるかどうかという点しか見ていない、きわめて狭い思考です。電気には環境面、エネルギー効率面などいろいろなメリットがあり、それゆえ世界に普及してきたんです。そういう部分を無視した反射的な意見であり、ちょっとカンベンしてほしいところです。

オイルショックが起こったら、逆のことを言い出すんじゃないか、とさえ思えてきます。

特に、JRの特急すずらんをやり玉に、「電気で走ると停電・節電時に走れないから、気動車の方がいい」なんて言っている人を見ると、頭痛が止まらなくなります。

特急すずらんが走る区間のうち、苫小牧~室蘭間は普通列車がすべて気動車(すずらんが東室蘭~室蘭間を普通列車として運行する分、およびすずらんの返却回送は除く)なので、「6往復のために電化設備は要るのか?」などという意見が時々趣味者から挙がります。

その是非については一旦保留するにしても、「電力需給の影響が少ないから」などと電化廃止を主張するというのは、「環境」という鉄道の利点をスポイルすべきだと言っているも同然です。そんな人とは鉄道について意見を交わしたくはないと思ってしまいます。


安全神話も、反動形成も、何もプラスのものは生み出しません。そういうレベルからは、一刻も早く脱した方がいいでしょう。

ちょっと乱雑な文章になってしまいましたが、とりあえず覚えている範囲で、考えたことなどを書いてみました。参考になれば幸いです。

こうして見ると、いろいろ考えさせられることの多い地震でした。しっかり教訓にして、これからの社会を乗り切っていければと思います。

アネックスのトップに戻る

「素人流・鉄道観察」本館へ

当サイトトップページに戻る