旅行記4日目 田老・学ぶ防災 / 東北リベンジ~旅は、何かを変える~ - ゲニウス(北)の北海鉄旅いいじゃないか
「ゲニウス(北)の北海鉄旅いいじゃないか」

……ゲニウス(北)がお送りする、北海道を中心とした旅行・鉄道情報サイトです。

  1. トップページ >
  2. 乗り鉄な旅行記 >
  3. 東北リベンジ~旅は、何かを変える~ >
  4. 田老・学ぶ防災

東北リベンジ~旅は、何かを変える~(平成27年2月11~16日)

4日目(平成27.2.14) 4/5ページ「田老・学ぶ防災」

田老にて、防災を学ぶ

田老には、ある目的を持って降りました。かの津波で大きな被害を受けたこの田老で行われる、「学ぶ防災」を受講するのです。

ガイドさんの車に乗って、津波で様変わりしてしまった田老の町を周りながら、津波の恐ろしさや、津波避難についての話を伺います。個人で予約したので、マンツーです。

ボクの自宅は沿岸部にはありません。別に何かの研究に役立てるというわけでも、今後沿岸部に移住する予定があるわけでもなく、単純に「被災地の今を知りたい」という思いと、ちょっぴりの好奇心とで、受講を決めました。せっかく受けたので、このページで少しでも防災のお役に立てれば、と。

田老は、世界トップクラスの規模を誇る防潮堤を備える町です。それほどの防潮堤がありながら、あの津波はそれを軽々と越えて町を襲い、多くの犠牲者が出ました。津波対策用の防潮堤は著しく損傷し、高潮対策用のもの(津波は想定していない)は流されてしまい、そのほとんどが津波とともに消え去りました。さらに津波は防潮林もなぎ倒しました。

まずは、第一防潮堤に向かいました。田老の駅前からの道のりに、民家はなし。すべて流されてしまっているのです。駅のすぐ前まで津波が来たとのことです。

ボクは損傷した第一防潮堤の上に上って、町を見渡しながら説明を聞いてました。遠くには、後述の旧たろう観光ホテルがあります。丘の方には、高台移転のための整地中の現場が見えます。

次に向かったのは、海沿いの建物。その建物の天井付近に、「平成」と書かれた看板が。その下の方には「明治」「昭和」と書かれた同様の看板が付いていました。津波の高さを示すものです。自分の身長のはるか上にまで津波が覆ったのです。ふっと右に目をやると、強風で波こそ立っていますが、襲ってくる気配のない、優しそうな海が広がっています。この海があの日多くの人の命をかっさらっていったとは、にわかには信じがたいと思ってしまいました。

陸の方に戻って、旧たろう観光ホテルへ。1・2階部分は津波でやられて鉄骨をさらしていました。

あの日、このホテルの社長が、最上階から身を挺して津波の映像を撮っていました。津波の惨禍を伝えるべく、ホテルは保存されるとのことです。

その後、役場(というか宮古に合併されたから「総合事務所」)の前へ。近辺は住宅が残っています。その辺りまで津波が来ていましたが、辛うじてそこで津波は止まったようです。役場の駐車場には、昭和の津波の時の村長の銅像が。村長は、その時の津波の体験と、津波避難の仕方を後世に残していたのです。我々が歴史に学ぶことができたならば、もう少し死者を減らすことができたのかもしれません。

メインは、先述の観光ホテル社長が撮影した、津波の映像。社長は、あの津波を伝えるべく撮影し、このプログラムのためにそれを提供しました。社長の意向により、現地に来て実際に町を見てもらったうえで映像を見てもらうべく、マスメディアにはその映像は一切公開されていません。ボクも勝手に撮ったりしてませんし、その内容について必要以上には触れません。

ガイドさんが何よりも強調していたのは、「地震の後はすぐ避難。遠くより高くへ。」という教訓でした。映像でも、すぐ避難しなかった住民が津波に巻き込まれ、遠くに逃げようとしていた車が低地で津波にのまれていた(というガイドさんの解説があった)のです。しかも、これらの教訓は先ほどの村長が残していたものと同様です。津波避難のイロハというわけです。

総括ですが、今までテレビで見てもおぞましいと思っていましたがそんなレベルじゃ断じてありませんで、実際に行って、見て、現地の方のお話を伺って、その怖さを肌で感じました。貴重な体験でした。

多くの人の死を、そしてこの日学んだことを無駄にはしたくありません。だからこうしてここでお話ししましたし、その他の場でも伝えていきたいです。

ちなみに、ボクは「三陸の復興が進んでいないのは知られざる理由があるのでは」という問題意識を持っていたので、プログラムとは無関係ながらガイドさんに質問しましたが、「一概には言えない」との回答をいただきました。被害があまりにも甚大すぎる以上、復興の遅れは必然といったところでしょうか。少なくとも、甚大な被害が出ているにもかかわらず首相自らの被災地見学を行って政府の指揮系統を麻痺らせた張本人たちは死k(ry

最後に駅まで送ってもらい、復興支援協力金(という名の受講料)4,000円を支払って、お礼を言って駅に入りました。前のページで申し上げた通り、復興のためなら出損を惜しむつもりはなかったので、一瞬の迷いもなくPON☆と払いました。

また会おう、三陸

田老駅は築堤の上。築堤の中から地下道めいた通路を通り、階段を上るとホームです。

ホームから景色を見渡します。かつては防潮堤があるために海は見えなかったといいます。

ホーム上にある小さな待合室には、駅ノートが。いろいろな人の思いが綴られていて、そんじょそこらの駅ノートとは持っている重さが違うと感じました。

しばらく宮古行きの列車を待ちます。やってきたのは、新型の36-700形。この車両も、先ほどの36-Z形と同様、クウェートの支援を受けて製造されたものです。

車内へ。というか、こたつ列車の車両もそうだったのですが、ドアチャイムがJR西日本のアレを2回繰り返すというものなんですよね。アレ、関西に行く予定はなかったのですが、道でも間違えたでしょうか。

車内はさすが新車、と言う感じ。座席は朝に乗った36-200形と同様に赤。座り心地はまずまず。最近のワンマン対応の列車にはもはや標準装備と言っていい、LCDの案内表示も装備。

対向列車(こたつ列車併結)とすれ違う形で田老を発車。宮古に戻ります。

田老にまた来たろう、ナンチテ

[ー。ー]つ<<< ´w`)「川相さん、帰りますよ」

乗車時間が短いので、ほぼあっという間に宮古到着。これにて、三陸観光はおしまい。この後は、またしても盛岡に戻ります。

乗っていた列車は、いい感じに山田線の盛岡行きに接続します。しかしそれには乗らず、もう少し宮古に滞在です。

目的は、お土産の購入。朝にも入ったJRのお土産屋で、いろいろと土産を買い漁ります。とにかく買わなきゃ、という使命感と、どれもおいしそうだから買いたい、という気持ちで、出費を惜しまず手に取っていきます。名前を知っていた山田の生せんべいに、三陸の塩を使ったお菓子。後日食べましたがいずれも美味でした。

三陸鉄道の駅でもいろいろと。先ほど食べておいしかったいかせんべい(三陸鉄道の車両、36-Z形のイラストの箱でした。でもさっき買ったヤツとは作ってる会社違った)に、その他ちょこちょこ。

時間が少し余ったので、駅付近の書店で暇つぶし。疲れもあって、それくらいしか思いつかず。……というか物買って支援したいなら商店街で何か買うべきでした。せめて書店でガルパンでも買えばよかったです。

さて、いい時間になったので、駅向かいのバスのりばへ。盛岡へは、バスで戻ります。

「乗り鉄な旅行記」のトップに戻る

当サイトトップページに戻る