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札幌~函館間 歴史 第4章 函館中心から札幌中心へ / 北の特急(+α)図鑑

連絡船の終焉

特急おおぞらの登場以降、函館から道内各地へと至るおおぞら・おおとり・北斗・北海・エルムの特急列車は、連絡船からの乗客を受けてたくさんの利用客を運んでいました。

しかし、昭和40年代後半以降、鉄道と連絡船による本州~北海道間の旅客輸送が、一気に落ち込んでいきます。

昭和49年には、東京~札幌間の旅客輸送シェアで、飛行機が鉄道を追い抜きました。その後、落ち目の国鉄を尻目に、飛行機はグングンと利用を伸ばしていきました。鉄道でほぼ1日をかけて東京と札幌を移動するというルートは、飛行機のスピードという圧倒的な力を前に、もはや時代遅れのものとなってしまったのです。


本州から北海道まで鉄道を使って来る乗客が減少していったことから、優等列車の乗客は札幌でほとんどが入れ替わるようになっていきました。つまり、特急・急行列車は事実上、札幌と道内各都市を結ぶ列車となっていったのです。

このような状況において国鉄がとりうる作戦は、東京~札幌間の輸送を諦め、連絡船を意識した函館中心の列車設定をやめ、道内の特急・急行を札幌中心ダイヤに転換することだけでした。

昭和30~40年代前半の時点で、準急や急行は札幌がターミナルの列車が多く、札幌を中心とした列車網があったと言えます。

その時点では、特急列車は基本的に函館を中心に整備されていましたが、昭和47年には札幌~網走間に特急「オホーツク」が登場。函館に来ない道内初の特急が生まれ、将来の札幌中心ダイヤ化の先駆けとなりました。また、昭和48年には青函連絡船に接続しない北斗が登場し、北斗はここから札幌~函館間の都市間輸送列車への変化を始めます。

しかし、看板列車であるおおぞら・おおとりは、依然函館中心の運転となっていました。急行宗谷・ニセコ(上り1本)も相変わらず函館から札幌以東に直通していました。

時代が大きく変わるという事態に直面した国鉄はしかし、なかなか札幌中心ダイヤへの本格的な移行には踏み切れませんでした。

札幌中心のダイヤへ

図1:国鉄末期に登場したキハ183系。写真のキハ183-11はJR北海道色ですが、当初は国鉄ツートンカラーをまとっていました(画像出典:JS3VXWの鉄道管理局 様)

国鉄に転機が訪れたのは、昭和55~56年のこと。この2年間に起こったいくつかの変化のあたりから、国鉄は本格的な改革をはじめます。

昭和55年2月、北海道に新形式の特急気動車キハ183系が登場。まだ試験的な投入だったため、2日に1回のペースでおおぞらに使用されることとなりました。この車両には、それまで特急おおぞら・おおとり・北斗・北海で使われていたキハ80系とは違って食堂車がなく、当初は顰蹙を買いました。それでもなお国鉄は、札幌中心の特急網ができれば食堂車が完全に不要となるのを見越して、食堂車を造らなかったのでしょう。

同じ年の10月には、千歳線に千歳空港駅(現・南千歳駅)が開業しました。東京~札幌間の輸送で飛行機に勝てない国鉄は、ついに「飛行機との共存」を選択し、千歳空港~札幌間の二次アクセスを担当することとしました。この区間には特急・急行の自由席に乗車できる「エアポートシャトルきっぷ」が発売されたことで、おおぞら・おおとり・北斗や、同日のダイヤ改正で誕生したL特急「ライラック」などが、空港アクセスという役割を与えられました。

翌年にはキハ183系の量産型が登場したほか、大きな変化がありました。それが、石勝線の開業。今まで札幌~帯広・釧路間は滝川まわりのルートしかなかったのが、千歳空港から東に進んで日高山脈をトンネルで貫く新たなルートが開通したことで、札幌~帯広・釧路間のスピードは革命的に速くなりました。これに伴い、おおぞらの札幌~釧路間は石勝線まわりとなりました。

こうなると、函館を中心とした特急列車は、弁護の余地のないほどに非合理的な存在となってしまいます。千歳空港駅がある以上は、連絡船から釧路・網走に行く乗客を考慮する必要がありません。釧路や網走に行きたいなら、千歳空港で飛行機と特急を乗り継げばいいからです。そのうえ、おおぞらに至っては1つの列車が札幌~千歳空港間44km(営業キロ)を1往復するという実にムダな行程となってしまいました。


千歳空港駅開業と同時の昭和55年10月1日ダイヤ改正で、国鉄はついに動き出しました。

札幌~旭川間のL特急が7往復から9往復に増加したのに伴い、おおぞら2・3号(昭和53年10月から下り列車が奇数号・上り列車が偶数号となった点に留意ください)は旭川編成を廃止して函館~釧路間のみの運行となったほか、おおぞら4・5号は札幌~釧路間の運行となり、札幌~函館間の特急は1本減少しました。この改正は、国鉄が深刻な赤字にあえぐ中の減量ダイヤで、全国的に特急列車の本数が削減されました。

翌56年10月1日の改正では、北海道初の特急列車の系譜を引くおおぞら1・6号が札幌で2つの列車に分かれ、札幌~函館間が北斗に編入されました。大雪、おおぞらと受け継がれてきた、函館本線のエースとしての列車番号「1D」が、この時消滅しました。

キハ183系への置き換えも進みます。昭和57年にはおおぞら全列車がキハ183系となり、次の年には北斗1往復もキハ183系化されました。

そして「国鉄最後のダイヤ改正」があった昭和61年11月1日、ついにおおぞら全列車が札幌以東の運行となりました。まさに、一つの時代が終わった瞬間でした。

さらに、国鉄分割民営化後の昭和63年3月13日の「一本列島」の改正では、青函トンネル開業の朗報の陰で、おおとりが廃止されました。こうして、札幌~函館間を走る定期の特急は「北斗」だけとなったのです。


一方で、北斗は特急おおぞら・おおとり、急行すずらんといった列車を吸収し、本数を増やしていきました。

昭和55年の時点で3往復だったのが、翌56年には4往復となり、60年には季節列車1往復を加えた5往復に増加。61年には一気に増えて8往復(すべて定期列車)となりました。

車両編成も、時代に合わせて変わっていきます。昭和60年には食堂車が連結されなくなったほか、以前は当たり前のように見られた10両編成が姿を消してゆき、キハ183系での車両統一を果たした昭和61年には全列車が6~7両となりました。

おおぞら1号が函館に入線しなくなって以来空席となっていた列車番号「1D」。この番号を、昭和59年から北斗1号が受け継ぎました。北斗は、おおぞらやおおとりの脇役としての時代を終え、札幌~函館間のフラッグシップへと変貌を遂げたのです。(ただし、昭和63年に登場した「北斗星」に、あっさりと「1列車」の称号を譲りました。)

連絡船との接続というかつてのアイデンティティを失いつつも、北斗は札幌~函館間の都市間輸送という使命を果たすべく、前に進んでいました。

昭和48年10月
北斗が函館~札幌間で1往復増発(下り1号・上り3号)。食堂車なしの6両
ニセコが昼行定期のみの2往復に減少
昭和49年7月
下り北斗1号・上り北斗3号に食堂車を連結、編成は6両→7両に
昭和53年10月
号数の振り方が、下りは奇数・上りは偶数に変更
北斗2・3・4・5号が10両→9両に短縮
すずらんが定期昼夜各1往復・臨時1往復の計3往復に
昭和55年2月
おおぞら4・5号に隔日でキハ183系を使用開始
昭和55年10月
おおぞら2・3号の旭川編成廃止、函館~釧路間の運行に。車両は隔日でキハ183系に
おおぞら4・5号が札幌~釧路間の運行に変更
おおぞら全列車が13両→10両に短縮
北斗2・3・4・5号が9両→10両に増結
すずらんの定期列車・夜行列車が廃止、不定期昼行2往復のみに
ニセコが1往復に減便
昭和56年10月
おおぞら1・6号の運行区間が札幌~釧路間に短縮、おおぞら2・3号が毎日キハ183系での運行に
北斗が1往復増発(9両)、他3往復の編成が1両ずつ短縮
北海が1往復増発。増発分はキハ183系での運転
宗谷が札幌~稚内間の運転に
昭和58年6月
北斗2・7号でキハ183系の運用を開始
昭和59年2月
函館直通のおおぞら2・5号が10両→9両に短縮
北斗4往復中2往復がキハ183系9・10両、2往復はキハ80系6・8両に
すずらんが不定期1往復のみに
せたなが快速格下げ
昭和60年3月
北斗の季節列車1往復が設定、定期4往復はすべてキハ183系6・9両に
すずらんが廃止
昭和61年11月
おおぞらの札幌~函館間がすべて廃止
北斗が8往復(すべて定期)に増加、うち7往復がキハ183系7両、1往復が同6両に
北海・ニセコが廃止
昭和63年3月
北斗が全列車キハ183系7両に
寝台特急「北斗星」・急行「はまなす」が新設
国鉄北海道総局・JR北海道 最若番列車の変遷
年・月列車番号列車名運行区間
昭和26~34年1急行大雪函館~網走(旭川~網走間普通)
昭和34~36年1函館~旭川
昭和36~37年1D特急おおぞら函館~旭川
昭和37~42年1D函館~旭川・釧路(釧路編成は2001D)
昭和42~45年1D函館~釧路
昭和45~56年1D特急おおぞら1号函館~釧路
昭和56~59年2D特急おおぞら2号釧路~函館(釧路~札幌間5002D)
昭和59~63年1D特急北斗1号函館~札幌
昭和63年~平成20年1特急北斗星1号上野~札幌
平成20~27年1特急北斗星上野~札幌
平成27~28年11D特急オホーツク1号札幌~網走
平成28年~1D特急スーパー北斗1号函館~札幌

消えゆく急行列車、山線の凋落

この大転換の中で消えていった列車たちがいます。それは、急行列車と、山線経由の特急「北海」です。


急行列車は、前々章で取り上げたように、特急が登場する前は本州~北海道間の広域輸送を担っていました。特急が登場し、その数を増やした後でも、人気の高い特急を補助する役割や、特急が停車しない駅の乗客を運ぶ役割を持っていました。

また、国鉄時代に数多くの若い旅人を北海道へと運んだ「北海道ワイド周遊券」(出発地~函館間往復+北海道内乗り放題)は、昭和56年にフリーエリア内に限り特急自由席が利用可能になる以前は、優等列車は急行の自由席しか使えなかったことから、旅行シーズンにはたくさんの旅行客を急行列車が運んでいました。とりわけ、飛行機が大衆化する以前は、鉄道ファンに限らず多くの若者が利用したことでしょう。

ところが、特急列車が充実してくると、急行列車には陰りが見えてきます。多くの乗客は、急行よりも特急を選ぶようになっていったのです。

急行は当然ながら、特急よりもスピードが遅く、車内のサービスも劣ります。しかしそれ以上に重要なのが、当時の優等列車たちは函館で青函連絡船と接続していたという点です。

時刻表に載っているのでご存知の方も多いとは思いますが、現在のJRには、新函館北斗で新幹線と在来線特急列車をその日のうちに乗り継ぐ場合に、在来線特急列車の特急料金が半額になるという制度があります。国鉄時代も、連絡船を介して本州の優等列車と北海道の優等列車を乗り継ぐと、北海道の優等列車の料金が半額となりました。

そうなると、本州からの乗客(周遊券利用者以外)は安くて快適な特急を選ぶ人が多くなります。

特急が出揃った昭和40年代後半以降、函館界隈の急行列車は衰退の一途をたどります。昭和53年にはニセコの夜行便・季節便が廃止。昭和55年にはすずらんの夜行便が廃止され、昼行便も季節列車に格下げ。また昭和56年までニセコ1往復で旧型客車が使用されていたという事実からも、この時期の函館方面の急行列車がすでに軽い存在になっていたことが読み取れます。

函館~長万部間には、他に「せたな」が走っていました。昭和41年に函館と長万部・瀬棚を結ぶ列車として誕生しましたが、車両が一般型のキハ20系でした。瀬棚線自体の利用が低迷し、昭和47年には瀬棚線区間が普通列車となりました。下りの函館~長万部間がすずらんに併結されていた時代もありましたが、結局昭和59年に快速格下げ。その生き残りが朝の長万部発・函館行き快速「アイリス」として最近まで残っていましたが、平成28年に普通列車となりました。

そして、国鉄末期には急行列車そのものが消えてゆくことになります。昭和56年には宗谷の札幌~函館間が特急北海として分離。昭和59年に前述の通りせたなが、昭和60年にすずらんが、昭和61年にニセコがそれぞれ消滅。函館方面の急行列車は姿を消すこととなりました(ただし、すずらんの夜行便とニセコは廃止後もしばらく臨時で運行されました)。


山線と呼ばれる長万部~小樽間は、海線経由の特急列車が次々と登場するにつれて、徐々に幹線としての地位を失っていきました。

特急北海や急行宗谷・ニセコが通りましたが、やはり時間がかかるというデメリットはいかんともしがたいものでした。

北海は昭和56年に宗谷の系統分離によって1往復が増便されましたが、結局昭和61年の改正で廃止。ニセコも消滅したことから、山線は定期優等列車の走らないローカル線に転落してしまいました。

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