歴史② / 札幌~新千歳空港 快速「エアポート」など - ゲニウス(北)の北海鉄旅いいじゃないか
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札幌~新千歳空港間・歴史 第2章 国鉄の大転換 空港駅開業 / 北の特急(+α)図鑑

駆ける飛行機、呻く国鉄

明治38年に北海道鉄道(第1章でお話しした、沼ノ端~苗穂間を開通させた会社とは異なります)により函館~小樽間の鉄道が全通し、その3年後には青函連絡船が就航。東京と札幌が青函連絡船を介して鉄道で結ばれました。

当時は、鉄道(+船舶)が本州~北海道間の唯一のルートといえる状態で、さらに遠く樺太へと至るルートとしても鉄道は重要でした。

昭和12年に東京~札幌間の飛行機の民間航路が誕生しますが、当時の運賃が鉄道の3等運賃の実に6倍にも及ぶ66円。同時期の官吏の月給が80円ほどでしたから、相当な高額運賃でした。当時の東京~札幌間の旅客輸送において、航空はまだ鉄道の敵ではありませんでした。

戦後も、当初は鉄道が主役だった本州~北海道間輸送。しかし、1960年代以降、日本航空・全日空の大型機導入合戦や、日本国内航空(後の日本エアシステム)の参入など、飛行機の隆盛が始まります。スピードも昭和36年には最速1時間半となりました。

1970年代になると、飛行機が東京~札幌間の主役に躍り出ます。大型機導入の応酬は続き、70年代中盤になるとジャンボジェット機の時代が到来します。

昭和49年には、羽田~千歳間の航路が、世界一の路線となりました。飛行時間1時間台の国内線でありながら、1日25往復という輸送力を誇り、それでいて全便がジャンボジェットを含むワイドボディ機で運航されるという、世界的に見ても稀有な路線という性質を、羽田~千歳便は持っていました。しかし、鉄道との所要時間差や、東京・札幌の経済規模を見れば、それも納得というものです。

同じ年には、東京~札幌間の旅客流動において、飛行機のシェアが鉄道を追い抜きました。

昭和55年の時点では、飛行機のシェアが7割近くまで増加。運賃も、鉄道(昼行の場合)の2倍程度と、鉄道との運賃差がかつてに比べて大きく縮まりました。その後も羽田~千歳便は発展を続け、シェアをグングン伸ばしていきました。


60年代までは本州と北海道を結ぶメインルートとしての役割を担っていた国鉄。しかし、70年代になると、本州内・道内の移動は伸びますが、首都圏と北海道を行き来する乗客は飛行機にどんどん取られていきました。

国鉄も無策ではありませんでした。北海道への観光客に何とか鉄道を使ってもらおうと、格安の旅行商品を出しました。

しかし、いかんせん割安商品。利用を伸ばすことには成功しても、収益アップには繋がらないのが現状でした。

たとえ飛行機より大幅に安くても、所要時間が10時間を超えているという有り様では、飛行機の持つスピードにかなうはずもなく、抜本的な改善策などひとつもありませんでした。

千歳空港駅設置、札幌中心ダイヤへ

図1:JR南千歳駅。平成4年6月までは「千歳空港駅」でした

東京~札幌間の旅客輸送で飛行機に勝ち目がないと悟った国鉄は、北海道内の鉄道網を札幌中心のダイヤに改組するという決断をしました。

すなわち、今までは青函連絡船を使って本州から来道する乗客をターゲットに、函館中心の優等列車網を組んでいたのを、道都・札幌をメインターゲットとした列車網に変更するというのです。

そして、優等列車の札幌中心化に並ぶ改革の目玉が、千歳空港駅の設置でした。

この千歳空港駅の開設により、札幌~千歳空港間のいわゆる「飛行機の二次アクセス」を国鉄が担うことが可能となります。東京~札幌間で飛行機と正面から戦うことはあきらめても、千歳空港と札幌の間の輸送であれば、まとまった需要が存在するため、鉄道に分がある、という算段です。

千歳空港の利用者は、昭和55年度で年間およそ800万人。当然、この大多数が札幌を目指します。そうなれば、大量輸送を得意とする鉄道の出番だ、というワケです。

また、千歳空港駅に各方面への特急列車を停車させ、本州から千歳空港に来たお客を特急で道内各地に運ぶ、という意味もあります。

当時はまだ千歳以外の地方空港や、道内の高速道路があまり整備されていない時代。とくに北海道の道路は整備が遅れており、高速道路が本州に比べてはるかに短い状況でした。それゆえ、千歳から全道へ乗客を運ぶ役として、高速性に優れる鉄道が重要視されたのです(むろんその意義は今も薄れていませんが)。


図2:南千歳駅の連絡橋。現在は途切れていますが、かつては旧空港ターミナルまで続いていました

昭和48年9月9日、千歳線の北広島~苗穂間が新線に切り替わり、同時に千歳線の全線複線化が完了しました。この詳細は札幌~函館間特急「スーパー北斗」「北斗」の歴史のページをご覧ください。

それから7年後の昭和55年10月1日は、国鉄北海道総局が大きな変化を迎えた日となりました。まず千歳線が電化され、すでに完了している複線化と合わせて、札幌中心の列車網の形成、および空港アクセスへの参入に必要となる豊富な線路容量という下地を作りました。そして、千歳空港駅が開業し、国鉄は千歳空港のアクセス交通となりました。

新設の千歳空港駅からは、空港のターミナルビルに向かって全長219.5mの連絡橋が懸けられました。

開業と同時に、特急・急行の自由席を利用できる「エアポートシャトルきっぷ」(初期は「エアーシャトルきっぷ」だった?)が発売されました。片道タイプのみの発売で、当初の発売額は札幌~千歳空港間が800円・苫小牧~千歳空港間が700円でした。後述するように当初は千歳空港駅に停車する普通列車は多くなかったため、割安なきっぷを出すことで札幌や苫小牧への乗客も優等列車を利用できるようにしたようです。

翌昭和56年10月1日には、千歳空港駅から分岐する新線・石勝線が開通し、札幌・千歳から帯広・釧路が一気に近くなりました。石勝線についての詳細は、また別の機会に。

なお、昭和39年の石勝線千歳~追分間の工事線格上げの時点で、千歳空港駅を設置する計画が明記されていたようで、この当時から将来的な札幌・千歳中心ダイヤ化の構想が存在していたことが窺い知れます。


なお、昭和55年に千歳駅の高架化が完成しています。

千歳線の前身である北海道鉄道札幌線が開通した当時、恵庭は鉄道の開業に湧き、市街が恵庭・島松の両駅の近くにすぐに形成されたのに対して、千歳は人家のないところに駅ができたうえに、主要道路沿いの集落が駅方面に伸びていきませんでした。

一転して、戦後の昭和30年代以降、千歳の市街地が北東に広がり、駅周辺も発展を始めました。

そうなると発生するのが踏切問題。昭和40年にもなると、市街地の踏切は大きな問題となっていました。

そのため、昭和42年から計画が始まり、昭和53年に起工、昭和55年7月10日から高架線の使用が開始されました。

高架橋は60kgレールを使用して2級線規格で建設され、最急勾配10‰・最小曲線半径600mとしました。また、この高架化によって、道道と交差する2か所を含む10か所の踏切が解消しました。

千歳空港駅、初期の表情

図3:L特急「ライラック」に充当されていた781系。手元に写真がないと思っていましたが、なんかHDD整理してたら出てきた

昭和55年10月のダイヤ改正で、電化開業・千歳空港駅開業というふたつの大きなイベントがあった千歳線ですが、普通列車の本数は札幌~千歳空港間でおおむね1時間に1~2本程度。1時間以上の間隔がある時間帯もありました。以前よりは格段に増加したとはいえ、高頻度ダイヤとはいえません。

また、当時は通過運転をする列車は1本しかなく(長都駅だけ通過の列車は多数)、約3割が気動車で、途中で特急・急行に抜かれる列車も多いなど、速いとはいえません。

ただし、千歳線はこの改正で、781系で運行される新登場のL特急「ライラック」をはじめ、特急「おおぞら」「おおとり」「北斗」、急行「ちとせ」「えりも」、そして季節列車を含めれば急行「すずらん」が通っていました。これらの列車は、前述の「エアポートシャトルきっぷ」で乗車可能でした。

特急・急行・普通を合わせれば、札幌~千歳空港間にはだいたい1時間に2~4本程度の列車がありました(ただし時間帯によりばらつきが大きい)。

当時の所要時間は、特急で35分前後、急行で40~45分、普通列車だと50分~1時間程度でした。

また、「おおぞら」で帯広・釧路、「おおとり」で旭川・北見・網走、「ライラック」で室蘭・旭川と、特急に乗れば各地に移動できる体系となっており、札幌以外からの利用にも便利となりました。


千歳空港駅と空港ビルを結ぶ連絡橋は、毎日のように多くの空港客が通り、駅は盛況となりました。

結局、国鉄の大転換は成功でありました。東北新幹線が開業してもなお、東京~札幌間の輸送のシェアは落ち続けました。一方、千歳空港駅の利用は堅調。その差は歴然でした。

ところが、千歳空港駅があんまり盛況なもので、今度は別の問題が発生してしまいました。それは、急行列車の輸送力不足です。

定期の特急列車が6両編成以上(昭和61年以降は4両編成が登場)なのに対し、急行列車はすでに主力としての役目を特急に譲った「ちとせ」と、日高本線直通のローカル急行「えりも」という布陣で、いずれも編成が短いため、空港アクセス列車としては問題でした。

特に「えりも」は編成が短く、ひどい時には空港利用客が押し寄せた結果積み残しを発生させてしまうほどであったといいます。

かといって、札幌~千歳空港間のためだけに編成を長くするのも、合理的とはいえません。輸送力を増やす抜本的な方法は、札幌~千歳空港間の区間列車の増強しかありません。


普通列車は、札幌エリアの高頻度ダイヤ化に伴って徐々に改善されていきます。昭和56年10月改正では若干の増発が図られ、普通列車が1時間以上来ない時間帯はほぼなくなりました。また、土日祝・多客期に運行される列車も日中に設定されました。その後も少しずつ増発が行われ、昭和61年11月1日の「国鉄最後の全国ダイヤ改正」では札幌~千歳空港間でおおむね1時間に2~3本(最低でも1本)となり、いよいよ大都市圏らしさが出始めます。

一方、当時の空港アクセスの主役であった特急列車も、並行して増加しました。まず昭和56年に、石勝線開業によりおおぞらの経路変更が発生したことで、つごう3往復増加。昭和59年2月におおぞらが1往復増発、翌年3月にはおおぞらが2往復と、季節列車ながら北斗が1往復増発。

昭和61年3月には、速達タイプの電車特急「ホワイトアロー」が登場。781系を6両から4両に短縮する魔改造が進行したことで、電車特急の増発が可能となったのです。ホワイトアローは、千歳線には2往復が設定され、1往復は千歳空港~札幌~旭川間、そしてもう1往復はなんと千歳空港~札幌間だけの区間列車となりました。国鉄時代に運行区間たった44kmの短距離特急が走ったのは、これが史上初にして唯一の事例です。

まあこうして特急の区間列車ができたわけですが……、「違う、そうじゃない」と言いたくなります。ただ、この設定はあくまで暫定的なもので、同年11月の改正では781系の4両編成化改造が完了し、ライラック・ホワイトアローの時刻が改正されたことで、千歳空港~札幌間だけを走る列車はなくなりました。また、この改正で同区間の特急列車は、北斗8往復(すべて定期列車)、おおぞら6往復、おおとり1往復、ライラックとホワイトアローが合わせて12往復となりました。

……と思ったら、JR化後の昭和63年3月の改正で、なぜかまぁまた千歳空港~札幌間だけ走るホワイトアローが下り1本だけ設定されました。札幌~旭川間のL特急「スーパーホワイトアロー」が登場した平成2年9月の改正では、引き続き札幌以南に直通するライラックのうち1往復が千歳空港~札幌間を間合い運用のような形で区間運転となりました。結局、新千歳空港駅が開業する平成4年7月の改正まで、この超短距離特急は生き残ることとなりました。

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