歴史① / 札幌~新千歳空港 快速「エアポート」など - ゲニウス(北)の北海鉄旅いいじゃないか
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札幌~新千歳空港間・歴史 第1章 千歳線と空港バスの成立ち / 北の特急(+α)図鑑

千歳線前史 Before "Airport"

快速エアポートや普通列車、各方面の特急が行き交うJR千歳線。札幌から千歳を経て、苫小牧に至る(厳密には沼ノ端起点、白石もしくは苗穂終点)この路線の歴史は、大正15年に遡ります。当初は北海道鉄道(現在の函館~南小樽間を開通させた会社とは異なります)の路線で、札幌線という名称でした。詳細は札幌~函館間特急「スーパー北斗」「北斗」の歴史のページをご覧ください。

開業日は、8月21日とする文書と、同22日とする文書が存在しており、鉄道省の文書などでは21日となっていますが、『新千歳市史』は22日説を採っています。

北広島~苗穂間は、当初は現在の新札幌経由のルートではなく、北広島から現在の地下鉄大谷地駅付近を通って、栄通(東北通)の少し北を走り、進路を変えて東札幌(現在のイーアス札幌)を経て、省線函館本線に沿って豊平川を渡り、苗穂で函館本線に接続していました。

開業時は1日5往復が設定されており、所要時間は沼ノ端~苗穂間で2時間20分、千歳~苗穂間で1時間30分でした。

その後北海道鉄道は、現在でも苫小牧に工場を持つ王子製紙の子会社となりました。当初北海道鉄道を経営していた室蘭の楢崎氏が株を手放す際に富士製紙に相談をしていた(結局、鉄道は小樽商人の手に)のが発端で、そのライバルだった王子製紙が鵡川流域の原木を運ぶのに使うために北海道鉄道の大株主となったところ、昭和4年に北海道鉄道が五私鉄疑獄事件の当事者となり、社長らが起訴されて退陣してしまったために、王子が経営に乗り出すこととなったのです。

札幌線は紙の原料となる木材の輸送に重点を置くようになりました。また、この関係で、当時同じく王子製紙の傘下にあり、札幌線と東札幌駅で接続していた定山渓鉄道の電車を国鉄乗り換え駅である苗穂駅に乗り入れさせるため、東札幌~苗穂間を直流電化しました。

札幌線は沼ノ端・苗穂でそれぞれ省線室蘭本線・函館本線と接続していましたが、これらの路線に乗り入れて苫小牧・札幌の中心に列車を直通させることが北海道鉄道の悲願でした。昭和9年10月に苫小牧駅への、同15年10月に札幌駅への乗り入れを実現させ、列車が両市街地を直接結ぶようになりました。

そのほか、当初は貨物を運ぶ目的で建設された路線でありながら、昭和9年12月1日にガソリンカーが投入されて、都市間路線としての性格を帯びるようになったのも特筆されます。当初は4往復だったガソリンカーの運行は、翌年12月には6往復に増回、苫小牧~苗穂間の所要時間もガソリンカー登場当初の2時間から1時間36分に短縮しました。新車も最新のものを次々導入していきました。昭和15年9月からはガソリンカー9往復の運行となり、当時の地方路線としてはフリークエンシーのあるダイヤとなっていました。


図1:「環状夢の橋」。国鉄千歳線旧線の跡地を利用したサイクリングロード「白石こころーど」にあります

札幌線が鉄道省(のちの日本国有鉄道)の路線となったのは、昭和18年。沿線の資源が豊富な路線であり、将来的に函館~札幌間のメインルートとなりうることから、戦時買収されました。

札幌線はこのとき、省線千歳線と名称を改め、新たな歴史を刻み始めます。

戦後、70年代の前半にかけて、千歳線は買収時の目論み通りに、函館と札幌を結ぶ優等列車が通過する幹線に脱皮していきました。

東京と札幌を青函連絡船を介して結んだ連合軍専用列車が千歳線を経由したのがその始まり。その後、急行すずらん、それに特急おおぞら・おおとり・北斗とその顔ぶれは増え、その脇を急行ちとせなどが固めました。

貨物列車にとっても千歳線は重要幹線となり、毎日多くの貨物列車が千歳線を走るようになりました。

一方で、普通列車は完全に脇役。当時の千歳線は全線単線で、特急・急行と貨物列車がその線路容量のほとんどを使っていたため、普通列車の入る余地はほとんどなかったのでしょう。

現在では、日中に15分間隔のエアポートに加えて、最低でも1時間に2本の普通列車がありますが、70年代までは1時間に1本未満で、70年代前半までは下手をすると2時間ほど間隔が空いている時間帯がありました。快速列車も存在しません。


千歳線の沿線には広島・恵庭・千歳の各自治体があり、当時から栄えていましたが、これらの町と札幌を結ぶ手段は路線バスが主流でした。

花形は北海道中央バスの千歳線。国道36号経由で札幌と恵庭・千歳を結ぶ路線で、現在でも急行便を含む多数のバスが走っています。最盛期の70年代前半には、千歳から苫小牧・室蘭に直通する便も含め、札幌~千歳間で100往復近くという本数が運行されていました。

当時の千歳線沿線では、特急列車をはじめとした広域輸送は国鉄、近郊の移動はバス、という棲み分けが成立していたというわけです。国鉄は広域の路線網を持っていますが千歳線の容量が少なく、一方で高速道路の整備がまだ進んでいなかったので、この役割分担は必然でした。

札幌オリンピックを控えた昭和46年に道央自動車道の一部が開通し、バスのスピードアップが実現しました。

ところが、昭和48年に今度は国鉄千歳線が改良。複線化のほか、北広島~白石(~苗穂)間が新線に切り替えられました。これによって、列車の増発・スピードアップが可能になりました。しかし、それでもなお、バスが主役であることは変わっていませんでした。

千歳飛行場の夜明け

1903年12月17日。ライト兄弟が、アメリカ・ノースカロライナ州キティホークにて、人類初の飛行に成功しました。

遅れること7年、明治43年12月に、日本でも初めて公式フライトが成功しました。北海道では、大正2年10月の奈良原飛行団による飛行が、初の成功事例であるとされています。

その後、飛行機はまだ一般的な交通機関とは到底言えないながらも、見世物から移動手段へと進歩を遂げました。

そのころ、北の大地・北海道には、自分たちの村に飛行場を造ることを夢見た人々がいました。それが、千歳村です。現在では北海道の空の便の大ターミナルである千歳の空港の歴史は、大正12年に飛行場の誘致を開始したところから始まります。

一方、大正15年には、当時道内で新聞のシェアを争っていた北海タイムスと小樽新聞が、競うように社用の飛行機を導入し、それぞれ「北斗」「北海」と命名しました。……どこかで聞いたような名前ですね。

8月3日、北海1号機が来道。飛行機で海を渡っての渡道は、これが初めてでした。

小樽新聞は、先述の北海道鉄道札幌線の開通に合わせ、千歳上空で記念の飛行を行いました。これに先立つ小樽新聞社員の千歳視察がきっかけとなって、千歳村は北海1号機をわが村に着陸させようと、飛行場を造成することとしました。

村民の労働奉仕による、手造りの千歳飛行場が完成し、酒井憲次郎操縦の北海1号機が千歳に降り立ったのは、大正15年10月22日のことでした。これが、千歳飛行場の夜明けです。

しかし、その後千歳飛行場に定期航路が開かれることはありませんでした。

村は、待てど暮らせど通らない民間飛行場の請願をあきらめ、陸軍の飛行場を誘致することとしました。

再び立ち上がった村民の手によって、千歳飛行場は何回かに分けて拡張され、昭和11年には陸軍の特別大演習が行われました。


図2:初代札幌飛行場の門柱。地下鉄北24条駅1番出口を出てすぐ右折、徒歩10分少々。

北海道に初めての民間航路が誕生したのは、大正15年。北海タイムスが札幌と旭川を週2回飛行する路線を開拓しました。ところが、この試みはたった3回のフライトであっさり潰えてしまいます。

その後、昭和4年に日本国内で初の定期航路が誕生し、昭和9年には道内の定期航路が開設されました。

そして昭和12年には、日本航空が運行する東京~札幌間の定期航路が誕生。この航路は1日1往復で、途中仙台と青森に10分ずつ立ち寄りつつ、東京~札幌間を6時間で結びました。ところが、採算がまったく合わず、約3年で運休となり、その後終戦までに復活することはありませんでした。

ところで、この東京~札幌間の航路は、かつて札幌にあった初代札幌飛行場(北24条飛行場とも。昭和8年竣工)を発着していました。現在の北海道大学の北側に位置していましたが、現在ではわずかに門柱を残すのみとなっています。

なお、この前年に、陸軍の大演習に合わせて、公文書や郵便物などを運ぶために臨時の空の便が東京~札幌(北24条)間で運行され、一部は千歳を発着しました。

その後、千歳飛行場は海軍の航空隊が使用するようになりました。

空港客を運ぶバスの活躍

東京と札幌を結ぶ日本航空の飛行機が運行を再開したのは、昭和26年10月26日。このとき日本航空は、海軍が使用していたため設備が充実していた千歳飛行場の民間使用が認められたことから、千歳飛行場を使用することになりました。千歳は、悲願であった「民間航路が来る飛行場」をようやっと手に入れたのです。

この飛行機に接続する形で、北海道中央バスが日本航空と契約し、札幌~飛行場間で日本航空の乗客専用の貸切バスを運行開始しました。これが、札幌における空港連絡バスのはじまりです。

次いで昭和29年8月10日、日本ヘリコプター輸送(以下、日ペリ)が東京~三沢~千歳の定期便を就航させました。

これに伴って、同日から北都タクシー(北都交通の前身)が、札幌と飛行場の間で飛行機のお客をタクシーで運びました。日ペリと提携し、外車を仕立てて同社の航空利用客専用のタクシーとして運行しました。

昭和32年には、日ペリが合併により全日本空輸(以下、全日空)となり、羽田~千歳便に大型飛行機を導入しました。これに応じて、北都タクシーの系列会社・北都航空バス(北都交通の前身。昭和36年に北都バスに社名変更)が設立され、中央バスに続いて2社目となる「バスによる飛行機の二次アクセス」が開始されました。


これ以降、日本航空と全日空が競うように大型の飛行機を羽田~千歳間に導入するようになります。乗客の増加とともにさらに大型・高性能の機材が投入され、速度もどんどん向上していきます。昭和36年には、現在と同水準の、羽田~千歳間1時間30分が実現されました。

昭和40年には、日本国内航空(後の日本エアシステム)が参入。三つ巴のシェア争いが始まります。

合わせて、中央バス・北都バス(昭和41年に合併で北都交通となります)も、乗客の増加に合わせてバスを充実させていきます。

飛行機の事故が相次ぎ、飛行機の利用が低迷したため、それに接続するバス路線も低調だった時期がありましたが、その後は成績を上げていきました。

昭和47年には道央自動車道の一部が開通し、中央バスが(たぶん北都交通も)高速経由となり、所要時間を短縮しました。

その後も、シェアを破竹の勢いで伸ばす航空とともに、バスは1992年の新千歳空港ターミナルビル開設までの間、本州~北海道間の輸送の主役として君臨しました。

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